瓦当
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日本の古瓦(にほんのこがわら)では、日本古代から近世までのについて解説する。日本の瓦は飛鳥時代からの歴史を持つが、そのほとんどの期間において寺院などの宗教施設か、宮殿官衙などの政治拠点で限定的に使用されてきた[注釈 1]。また、多くの建造物が木造である日本では、建築の遺構を発掘しても建物そのものが出土することは非常にまれで、瓦や礎石などが主な調査対象となる。こうしたことから古瓦を調査研究することは歴史考古学建築史の分野で重要な意味を持つと考えられている[1]
瓦にまつわる用語「瓦#種類・分類」も参照

一般的に瓦は素材や形状などで分類されるが、日本の古瓦においては素材は粘土を焼成した粘土瓦であることがほとんどで、近世になり金属や石で代用する例が現れる[2]。また、形状については本瓦がほぼ全てで、桟瓦が発明されるのは17世紀後半になる[3]。本記事でも特記ない場合は、粘土製の本瓦について記述する。
本瓦の部分名称

本瓦とは、緩やかに湾曲する凹面を上向きにした平瓦と、半径の小さな曲面の凸面を上向きにした丸瓦の二種を交互に重ね合わせる瓦である。また、軒先に使用される瓦は瓦当(がとう)と呼ばれる部位が付けられ、それぞれ軒平瓦、軒丸瓦と呼び、両者を合わせて軒先瓦ともいう[4]

上記の名称は建築史家の足立康によって提唱された学術的名称だが、古文書などに記され古来から使用される歴史的名称を用いる事もある。その場合は、平瓦は女瓦(めがわら)、丸瓦は男瓦(おがわら)、軒平瓦は宇瓦(のきがわら)、軒丸瓦は鐙瓦(あぶみがわら)と呼ぶ。この二種類の呼び名は昭和初期に名称論争にもなったが統一されることなく、2010年代に至ってもどちらの名称を用いるかで研究者を二分している[5]。本記事では学術的名称で統一する。

平瓦は曲面を持つ二つの端部に長短がある。長い方を広端(こうたん)、短い方を狭端(きょうたん)と呼び、広端が水上で狭端が水下とするのが一般的である。丸瓦には継ぎ目部分に段差(この部位を玉縁(たまぶち)という)がある玉縁式(たまぶちしき、有段式ともいう)と、段差がない行基式(ぎょうきしき、無段式ともいう)がある[4]。多くの瓦は玉縁式で、玉縁部の成型法によっても型式分類される[6]。行基式の場合、上下で曲面の大きさが異なり、大きい方を広端、小さい方を狭端と呼び、広端が水下、狭端が水上となる[4]

それ以外にも鬼瓦鴟尾に代表される多種多様な役瓦(道具瓦ともいう)がある[7]

平瓦(女瓦)

丸瓦(男瓦)

軒平瓦(宇瓦)

軒丸瓦(鐙瓦)

左が玉縁式、右が行基式(元興寺

軒平瓦・軒丸瓦の瓦当(周防国分寺出土)

鴟尾(高井田廃寺跡出土)

瓦当軒丸瓦の瓦当文様の部分名称

瓦当部には瓦当文様が施されるが、多くは笵と呼ばれる木型によって成形される。また同じ笵を用いた瓦は同笵瓦という[8]。古代の瓦当文様は蓮華文が主流である。蓮華文の中心にある「中房」とその周りの花弁のある「弁区」を合わせて「内区」と呼び、その外側の文様部分を「外区」と呼ぶ。中房には「蓮子」(れんし)を置くが、その個数によって「1+8」などと表記する。蓮花は子葉の無い「素弁」、子葉がある「単弁」、子葉が複数ある「複弁」がある。蓮弁の間から覗く花弁は「間弁」という。外区の文様が二重の場合はそれぞれ「内縁」「外縁」といい、施される文様は「鋸歯文」「珠文」「雷文」などという[4]。以上の組み合わせが瓦当文様の基本的な名称となるが、類似する文様は「〇〇式」あるいは「〇〇系」などと分類されてきた。こうした類似する瓦当文様を造営氏族に関係付けて造営氏族の勢力圏を表すという説もある[8]。瓦当文様は6世紀末では素弁蓮華文が主流であったが、7世紀中頃に単弁蓮華文、続いて複弁蓮華文に変化し、12世紀頃からは巴文が主流となる[4]
古瓦の研究史

古瓦を通して過去に存在した建築を考察する試みは近世に遡る。本居宣長檜隈寺跡を訪問し発見した瓦について「いづれも布目などつきて古代のものと見たり」と『菅笠日記』に記している。近世には古瓦をにする事が流行し、そうした好事家の関心にこたえて藤貞幹松平定信法金剛院の宝静誉淳らが瓦の拓本を蒐集して図録を作成した。特に誉淳が1827年から作成した『古瓦譜』は畿内で600点以上の拓本を蒐集し、瓦当文様に着目したうえで編年を試みている[9]

瓦の編年を体系化したのは関野貞である。関野は「古瓦模様沿革考」を『建築雑誌』に連載後、1928年に『考古学講座第5巻 瓦』を刊行し、徹底した資料の収集と分析を行い、寺院の文献資料などと照らし合わせて編年を行った。石田茂作は1936年に著した『飛鳥時代寺院址の研究』で、いわゆる「引き算[注釈 2]」によって型式分類する手法を叙述した[10]。また藤沢一夫は1941年の『摂河泉出土古瓦の研究』で瓦当文様を内区と外区に分けて分類する手法を提唱した[11]

戦後になると数多くの発掘調査が行われるようになり、研究の基礎資料が蓄積されていく[11]。編年研究は同笵瓦における笵の摩耗や笵傷(はんきず)の進行、笵の彫直しなどを観察したり、文様は模倣を繰り返すことで形式化するという概念により相対年代を判別する、あるいは製作方法の変遷を追うなど手法により詳細な編年が試みられ、古代寺院の研究で成果を上げている[12][13][11]。たとえば639年創建の百済大寺の所在地は長年不明とされてきたが、吉備池廃寺から出土した瓦の瓦当文様により当地が有力視されている[14]。また笵傷の進行により薬師寺の造営は、まず金堂から始まり、東塔、中門、回廊、西塔の順で行われたことも判明した[注釈 3][15]。ただし、こうした編年研究に問題が無いわけではなく、特に地方においてはこれに当てはまらない事例も報告されており課題となっている[11]

以上のように古瓦の研究は型式分類と編年が最重要課題とされてきたが、研究の進展によって地域間交流や系統論、生産論、流通論にも範囲が広がりつつある[16]。一例として八賀晋や鬼頭清明、菱田哲郎などにより、瓦当文様の分布から歴史的背景を読み取ろうとする研究や、小林行雄大川清などの造瓦技法の復元や瓦工集団の研究などが挙げられる[11]
古瓦の変遷
古代の瓦
瓦の伝来

蓮華文軒丸瓦の変遷素弁蓮華文(飛鳥時代:6世紀末葉-7世紀前半頃)


飛鳥寺
(飛鳥寺式花組)

飛鳥寺
(飛鳥寺式星組)

船橋廃寺
(船橋廃寺式)

奥山久米寺
(高句麗様式)

坂田寺

単弁蓮華文(白鳳時代前半:7世紀中葉頃)


吉備池廃寺
(百済大寺式)

木之本廃寺

山田寺
(山田寺式)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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