日本の政治家瓦 力かわら つとむ
1999年10月5日撮影 (61歳)
生年月日 (1937-04-01) 1937年4月1日
出生地 石川県七尾市
没年月日 (2013-01-13) 2013年1月13日(75歳没)
死没地 石川県七尾市
出身校中央大学法学部卒業
所属政党自由民主党(加藤派→古賀派→古賀派[1])
称号旭日大綬章
法学士(中央大学)
第45・62-63代 防衛庁長官
内閣竹下内閣小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
在任期間1987年11月6日 - 1988年8月24日1999年10月5日 - 2000年7月4日
第65代 建設大臣
内閣第2次橋本改造内閣
在任期間1997年9月11日 - 1998年7月30日
内閣官房副長官(政務担当)
内閣鈴木善幸内閣
在任期間1980年7月17日 - 1981年11月30日
衆議院議員
選挙区(旧石川2区→)
(石川3区→)
比例北陸信越ブロック
当選回数12回
在任期間1972年12月10日 - 2009年7月21日
その他の職歴
第38代 自由民主党国会対策委員長
(総裁: 宮澤喜一)
(1992年 - 1993年)
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瓦 力(かわら つとむ、旧姓:戸島、1937年(昭和12年)4月1日 ‐ 2013年(平成25年)1月13日)は、日本の政治家。位階は正三位。
衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第45、62、63代)、建設大臣(第65代)、自由民主党国会対策委員長(第38代)を歴任した。 石川県七尾市出身。石川県立七尾高等学校、中央大学法学部卒業。 益谷秀次の秘書を経て地盤を後継。いわゆる防衛族議員とされる。岳父は元カワラ金属社長の瓦辰二。 1988年、潜水艦なだしお事件の責任をとって防衛庁長官を引責辞任する。辞任の翌日から日本中の三十数遺族すべてを線香を持って訪ね歩いた。 1992年12月、総裁・宮澤喜一の下自民党国会対策委員長に就任。 第2次橋本改造内閣で建設大臣、小渕第2次改造内閣、第1次森内閣で防衛庁長官を務めた。 第44回衆院選において、党は瓦を比例単独候補とし、選挙区候補を輪島市選出の県議会議員である北村茂男とするコスタリカ方式を打診した。瓦は反発し一時無所属での出馬も検討したが、党本部による比例名簿上位の確約により受諾した。第45回衆院選への引退表明の際、石川県第3区に自身と同じ自民党から立候補した北村を「後継候補として認めない」旨発言し支援しないことを表明、さらに選挙戦中に第3区民主党新人候補の近藤和也と握手する姿を披露するなどしたため物議を醸した。[要出典] 2013年1月13日午後1時30分、肺炎のため石川県七尾市の病院で死去[2]。75歳没。歿後七尾市名誉市民[3]。 愛称は「りきさん」であり、公式ウェブサイトでは本名の「かわら・つとむ」ではなく、「かわら・りき」と称していた[4]。
来歴・人物
略歴
1960年(昭和35年)3月 - 中央大学法学部卒。
1972年(昭和47年)12月 - 衆議院議員当選。
1977年(昭和52年)1月 - 衆議院議事進行係。