瓜生寅
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うりゅう はじめ/はじむ
瓜生 寅

生誕1842年2月24日
日本・福井県福井市
死没 (1913-02-23) 1913年2月23日(70歳没)
国籍日本
別名瓜生 三寅
職業官僚、教育者、英学者、実業家
著名な実績学制起草者
代表作交道起源(一名万国公法全書)
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瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日天保13年1月15日)- 1913年大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄[1][2]

日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した[3][4]大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。また、明治元年には、ヘンリー・ホイートン(英語版)の代表作『Elements of International Low』(万国公法)を原著から直接和訳した『交道起源(一名万国公法全書)』を著し、日本の法律の国際化に多大な影響を与えている。その他、貨幣商業電気工学地質測量地理歴史家政学など著作は多岐に渡る[1][5][3][4]
経歴・人物

福井藩士多部五郎左衛門正晃の長男として、越前国福井城下万町(現・福井県福井市春山)で生まれる[2][3]。実弟は後に岩倉使節団の助手や海援隊に属する瓜生震(雷吉)であり[1]、弟とともに分家して遠祖の瓜生姓を名乗る[5]

若くして漢学洋学[2]、多くの学問を学び、1860年(万延元年)には、長崎に遊学に向かう。5月(旧暦)に京都を出発し長崎に向い、7月(旧暦)に長崎に到着している(当時18歳)[6][4]

1861年(文久元年)、長崎でチャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)及びグイド・フルベッキ両氏に師事し、各私塾で英学を学ぶ[6][4]。同年5月(旧暦)、ロシア軍艦対馬占領事件を観に、小杉右藤次に随い、対馬の黒瀬浦に赴く[6]

1862年(文久2年)、西洋式の君沢形風帆船で江戸に廻航する[6]

江戸幕府に仕えることとなり[1]、文久3年12月、英語稽古所が長崎江戸町に移転して開設された幕府の洋学所の教授に就任し、教鞭を執った[6][1][5]。洋学所では英学の師であるウィリアムズとフルベッキも教授を務めていた[7][8]

1864年9月(元治元年)、何礼之の許可を得て、何礼之塾の塾長であった前島密(日本の近代郵便制度の創設者)と苦学生のために私塾・培社を開設。培社はフルベッキが以前寓居していた崇福寺広福庵に置かれ、瓜生寅が学長(塾長)となった[9][10][11][12][13]藝州(広島)、薩摩や、筑前筑後にある諸藩の藩主より生徒数名を托された[6]。生徒には弟・瓜生震、林謙三(のちの安保清康坂本龍馬の友人)、高橋賢吉(のちの芳川顕正伊藤博文の友人)、橘恭平(のちの神戸郵便局長)、鮫島誠造(尚信)らがいた[12][13]。生徒はその他に5名ほどはいたとされるが[6]、そのうちの一人は松下直美(のちの福岡市長、大審院判事)であった[6]。何礼之から許可を得て設立された塾ではあったが、何礼之塾とは共に英語を教える塾として競い合っていたという[6]。その後、倍社は、塾の財政支援のために前島密が紀州藩蒸気船の監督者を勤めている間に、所長の瓜生寅自身の金銭問題も生じて閉じることとなった[11][14][15]

同年10月(旧暦)、福井に帰省する。11月(旧暦)には、弟・瓜生震(雷吉)を携へて故郷を後にし、12月24日(旧暦)に長崎に帰着した[6]

1864年(元治元年12月20日)、英学の実力が認められ福井藩主の松平茂昭から豊前小倉に呼ばれ、原籍に復して士席となった[6][4]。1865年(慶応元年8月)帰省、10月(旧暦)再び長崎へ向かう[6]。この頃、長崎において、瓜生と同じくウィリアムズ門下で、肥後藩の海軍司令官であった荘村助右衛門(後の省三)と連携して行動を共にし、瓜生が英国海軍の艦長から聴取して和訳して作った越前藩へ報告書を、荘村が写し取って肥後藩へも報告するなど、両名は深い間柄にあった。荘村はその後、弟・震(雷吉)が所属する海援隊で活動する坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に参加させよう画策している[16]

1866年(慶應2年2月)、英国公使に従い、英国軍艦にて横浜に入ったが、幕吏が疑う所となる。3月(旧暦)に長崎に帰り、同年4月(旧暦)、福井に帰国の命があった[6]

明治維新となり、明治初年に上京して東京・開成学校に勤める[17]。1869年(明治2年)から1870年(明治3年)の頃に福井で英学塾を開く。学生には佐久間正(本多府中藩)、稲生震也、雨森別、小野文哉、山岡次郎らがいたが、その生徒数は分かっていないが、名声は高かった[18]


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