環境決定論
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フリードリヒ・ラッツェル

環境決定論(かんきょうけっていろん、英語: environmental determinism)は、人間活動は自然環境の強い影響を受け、それに対する適応の結果として地域性が生じる、とする地理学概念である[1]。単に環境論・決定論ともいい[2]ドイツ地理学者フリードリヒ・ラッツェルが主唱者とされている[3]

一方で、地理学の歴史は、環境決定論を克服する方法の開発の歴史としての側面を持っている[4]。その方法の1つとして文化地理学が打ち立てられた[5]
概要

極端に言えば、「人間は自由意志を持たず、地域の自然環境によって人間活動が決定される」という論である[2]。「環境決定論」の名は、フランス歴史学者であるリュシアン・フェーブルが著書『大地と人類の進化』の中でフリードリヒ・ラッツェルを環境決定論者、ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュを環境可能論者と呼んだことに由来する[6]。故にラッツェル本人が自身を環境決定論者と認めていたわけではなく[3]、ラッツェルが単に人間が自然を受容することを説いたわけではないことが後世の研究者によって明らかにされている[6]。また、環境決定論がラッツェル固有の理論ではなく、同時代の地理学者のエリゼ・ルクリュ(Elisee Reclus)の著作にも環境決定論的な見解が示されている[7][注 1]

平たく言えば、自然条件A,B,C(A≠B≠C)を満たす地域であれば、世界のどこでもDという人間活動が見られる、という主張が環境決定論である。

環境決定論は自然環境の差はすなわち文化の差であるから、新しい考え方や技術、つまりイノベーションはすべての地域で独立して発生することになる[9]。しかしある地域における現実の文化は、他の地域で発生した文化が伝播したものであることが多い[9]。環境決定論者とされるラッツェルは、地理学における移動や伝播の重要性に言及した[10]。ラッツェルの著書『民族学』(Volkerkunde)では文化周圏説を説いており、人類学界では伝播主義の主唱者とみなされている[6]

環境決定論は長い間、首尾一貫して因果関係を用いた地理学的説明を可能にする唯一の理論として君臨し続けた[11]。その一方で真の環境決定論者と呼べるような人物は少なく、フェーブルが槍玉に挙げたフランスの学者はわずか2人で、ドイツ語圏英語圏の学者もそれほどいなかった[12]。論者の少なさ、論者の著作の学問的価値の小ささに対して不釣り合いなほど後に感情的に否定されたのは、地理学者の多くが彼らの抱える懐疑と疑問に答えうる唯一の存在として認識しているからだとポール・クラヴァル(Paul Claval)は述べている[13]。また地理学者は一種のノスタルジアを環境決定論に抱いており、フィリップ・パンシュメル(Philippe Pinchemel)は「ある種の決定論を承認し、それを受け入れることなしには、地理学は、自らの統一性と独自性とを同時に喪失する。」と述べている[14]
ラッツェルの環境決定論

ラッツェルは『人類地理学』において「すべての有機的生命に対する大気の作用はきわめて深く多様であって、人間の環境を構成するほかの自然物(Naturkorper)と比較にならぬほどの影響を及ぼしている。」と述べ、環境の中でも特に気候が人間に与える影響が大きいとした[15]。これ自体は真新しい主張ではないが、ラッツェルは「気候の影響を証明することのできる大気の主要特性、つまり暖かさと寒さや湿潤乾燥の、さまざまな混合と配合においてのみ」検討することで、従来の人間への未知なる影響をすべて気候に求めるという乱暴な説と一線を画したのである[15]。ここからラッツェルは、北方的な民族性と南方的な民族性に差異が見られることを発見した[16]。そして「往々にして征服者や国家の創設者が北部から現れ、南部の地方を支配下に置くのは偶然であろうか」という問いが浮かんだ[16]。ラッツェルはこれを必然と考え、ゲルマン民族の大移動ドイツイタリアの関係、満州民族による漢民族の支配、温帯に住むカフィール族の熱帯への侵入を例として挙げ、北方の冷涼な気候が有利に働いていると解釈した[16]

一方でラッツェルは影響の間接性を強調した[17]。これはラッツェルが高度の精神生活への自然の影響が、経済的・社会的関係を媒介し、内的なものと相互に結び付くことを分かっていたからである[17]。また進化論の影響から、諸民族が可変性(変異性)の下に置かれているとし、「諸民族がその土地の反映である」という論は誇張だとしている[18]

ラッツェルの主張は、生涯一貫していたわけではない。初期にはどんな意志の強い人間でさえ、巨大な機械の1本のピンに過ぎない、と考えたが、次第に自然環境に対抗する意志の強さによって環境のもたらす影響の度合いに変化が生じるという考えに変化した[19]
辞書による定義

各種の地理学辞典では、以下のような解説がなされている。決定論というのは,一般的には世のなかに生起するすべてのものは,因果の必然的な鎖によって決定されるという哲学概念であるとされているが,地理学では,人間の地域的な生活様式は,人間の自由選択によるものではなく,外的な気候・地形・水界・植生などの自然環境によって必然的に決定される概念で,環境可能論と対立する言葉である。(後略) ? 日本地誌研究所 編『地理学辞典 改訂版』109ページ人間の活動は環境とりわけ自然環境によって支配されているとする考え方.この考え方によると,個人は感覚を通じて世界に向き合って認識を構築し,環境に対する反応を超えることはできない.(後略) ? Susan Mayhew 編『オックスフォード地理学辞典』49ページ人間と自然の関係,つまり人間の自然への働き方を考えるのが地理学であるが,その中で因果的な法則を考えるに当り,環境が活動方法を決定するといった1種の宿命論的な考え方が打ち出された.有名なドイツの地理学者のラッツェルなどはそのような考え方に基づいた人文地理学の体系を打立てた人として知られている. ? 金崎肇『地理用語の基礎知識』55ページ
歴史的展開

人間と自然環境の関わりを論じることは、東洋西洋ともに文明の誕生から今日に至るまで、人類にとって重大な関心事であった[20]。例えば、アリストテレス気候文化の関係を論じ、ストラボン著書地理誌』(Geographia)において気候が人間生活に大きな影響を及ぼすことを述べている[21]。また、エラトステネスも自然環境の差異が人間社会に大きな影響を与えることに言及している[20]ルネサンス期以降の近世ヨーロッパにおいては自然科学の発展に伴い、「地理的環境が人間社会の発展を規定する」という環境決定論的な考えが受容されていった[20]啓蒙思想家も環境論を展開し、シャルル・ド・モンテスキューは主著『法の精神』で自然環境の人間精神肉体への影響を論じた[21]

近代に入ると従来の博物学的な地理学を自然科学的手法で体系化する動きが見られ、アレクサンダー・フォン・フンボルトカール・リッターの2人の有力な地理学者が現れる[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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