瑞巌寺
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この項目では、宮城県宮城郡松島町にある寺院について説明しています。その他の用法については「瑞巌寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

瑞巌寺
本堂
所在地宮城県宮城郡松島町松島字町内91
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度22分19.7秒 東経141度3分34.4秒 / 北緯38.372139度 東経141.059556度 / 38.372139; 141.059556座標: 北緯38度22分19.7秒 東経141度3分34.4秒 / 北緯38.372139度 東経141.059556度 / 38.372139; 141.059556
山号松島青龍山
宗旨臨済宗禅宗
宗派臨済宗妙心寺派
寺格関東祈祷所[1]
本尊聖観音菩薩
創建年(伝)天長5年(828年
開山円仁
開基(伝)淳和天皇
中興年臨済改宗:正元元年(1259年
瑞巌寺竣工慶長14年(1609年
中興臨済改宗:北条時頼、法身性西(開山)
瑞巌寺竣工:伊達政宗、雲居希膺(開山)
正式名松島青龍山瑞巌円福禅寺
別称松島寺
瑞巌円福寺
円福寺
延福寺
札所等奥州三十三観音霊場6番
三陸三十三観音霊場番外
四寺廻廊
文化財本堂、庫裏及び廊下(国宝
御成門、中門他(重要文化財
公式サイト国宝 瑞巌寺
法人番号2370605000273
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臥龍梅洞窟遺跡群鰻塚参道(2005年9月撮影)。江戸時代には道の左右に13の塔頭が並んでいた。参道(2018年10月撮影)。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた津波は、当寺の境内にも浸入し、参道の杉木立の多くが枯死した。

瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。

江戸時代前期の元禄2年(1689年)に俳人松尾芭蕉が参詣した[2]ことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる[3]。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。

境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本のの木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。

同じ東北地方にある平泉中尊寺毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史
天台宗延福寺

平安時代の延福寺については、南北朝時代室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない[4]。それによれば、延福寺は天長5年(828年淳和天皇勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという[5]。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代まで遡ることが確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている[5]。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる[6]

『天台記』はこの寺が奥州藤原氏の保護を受け、文治2年(1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子の頼平が栗原郡を寄進したと記す。が、一郡の寄進は信じがたいし、嫡子は頼平ではなく泰衡、秀衡の没年は文治3年である[7]

また、文治5年(1189年)に源頼朝源義経を追討した時、延福寺の僧は頼朝のために義経を呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた)陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏に離反したと推測されており、この伝承は荒唐無稽と言えないものがある[8]

寺にはまた、見仏上人にあてた北条政子(頼朝夫人)の手紙と、政子が寄贈したという仏舎利が、五輪塔の形をした水晶製の容器に入れられて伝えられている。見仏は円福寺には属さず松島にいた行者である。政子の手紙は自筆ではなく、偽作でなければ後世の写しと見る説が有力である。書簡・寄贈を史実と推定する学者もいるが[9]、伝承を偽とする説も強い。たとえば、容器の形から政子没後の制作と推定し、鎌倉時代に仏舎利信仰を勧めた真言律宗叡尊の影響を見る説がある[10]

平安時代の延福寺は現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置は不明である。1992年平成4年)の瑞巌寺境内発掘調査で、9世紀の製塩炉が見つかったことから、その場所が当時は寺院ではありえないことがわかった[11]。延福寺の規模は意外に小さかったのではないか、とする説もある[12]
禅宗への転換

鎌倉時代禅宗に傾倒した北条時頼鎌倉幕府執権)は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。『天台記』で、禅宗への転換は時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。それによれば、旅の僧として松島に来た時頼は、祭礼を見物して感動し、大声で祭を褒めた。それが祭を乱したとして、多数の僧徒が時頼を殺そうとした。幾人かののとりなしで時頼は事無きをえて逃れた。時頼は岩窟で修行中の法身に出会い、天台僧を滅ぼして禅宗を広めるという密談を交わした。その後、千人の兵力を差し向けて天台宗徒を追い払い、法身に寺を委ねた。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、死に至らしめたという。

以上『天台記』が記すのは、この紛争についての天台宗側の伝えとされる。禅宗側が伝える時頼は、をとりに惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けたという。


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