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この項目では、日本の楽器である琴について説明しています。

中国の楽器については「古琴」をご覧ください。

楽器の分類用語については「ツィター属」をご覧ください。

その他の用法については「琴 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

日本の琴琴を演奏する女性。長谷川雪堤琴の練習風景。大正時代

琴(きん/こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4)一絃琴須磨琴)、(5)二絃琴(八雲琴)がある。(1)琴(きん)と(2)(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決めるが(和琴は柱を使う)、(2)は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節することである。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す[1]
種類
七絃琴(古琴)詳細は「古琴」を参照
一絃琴

モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
二絃琴

1820年に中山琴主が出雲大社への献納用楽器として考案したことから当初は出雲琴と呼ばれたが、代表曲「八雲曲」にちなんで八雲琴と呼称するようになった。初期は竹で作られたが、のちに杉や桐製となった。2本の弦は同律に調弦されることから、一絃琴から進化させたものと考えられる[2]出雲伊予京阪地方で盛んになったが、現在は衰微している。

明治初期に二絃琴を発展改良させた東流二絃琴(あずまりゅうにげんきん)が開発され、東京で流行した端唄俗謡の伴奏楽器として、明治中期まで盛んに用いられた[2]
大正琴

大正時代に二絃琴をもとに開発された。詳細は「大正琴」を参照
「こと」の由来

古事記』などに「こと」を弾く場面がしばしば登場するように、本来「こと」は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。登呂遺跡など、各地の弥生時代の遺跡からすでに「こと」と思われる残片が見つかっており、また古墳時代埴輪にも「こと」や「こと」を弾く人物をかたどったものがある[3]。つまり、「こと」は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その「こと」は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に「こと」と呼ばれる箏が中国から渡来したのは、奈良時代のことである。

和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇?村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその異母弟の蛍兵部卿宮宇治八の宮、また源氏の後妻の内親王女三宮とその子、常陸宮の娘末摘花明石の御方(母の明石尼君が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
縄文琴

倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の2種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。


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