琴櫻傑將
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この項目では、祖父で1950年代後半から1970年代にかけて活動した元大相撲力士について説明しています。孫で2024年に大関に昇進した力士については「琴櫻将傑」をご覧ください。
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琴櫻 傑將

母校の倉吉市立成徳小学校前に存在する
琴櫻の顕彰碑(左)と土俵入り姿の銅像(右)
基礎情報
四股名琴櫻 傑將
本名鎌谷 紀雄
愛称猛牛
姥櫻
破れ桜
ポンコツ桜
遅咲きの桜
生年月日1940年11月26日
没年月日 (2007-08-14) 2007年8月14日(66歳没)
出身鳥取県東伯郡倉吉町
(現・鳥取県倉吉市
身長182cm
体重150kg
BMI45.28
所属部屋佐渡ヶ嶽部屋
得意技押し、右四つ、寄り、吊り
成績
現在の番付引退
最高位第53代横綱
生涯戦歴723勝428敗77休(93場所)
幕内戦歴553勝345敗77休(65場所)
優勝幕内最高優勝5回
十両優勝2回
三段目優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞2回
データ
初土俵1959年1月場所[1]
入幕1963年3月場所[1]
引退1974年5月場所
(番付上では同年7月場所)[1]
備考
金星2個(柏戸1個、佐田の山1個)
2019年7月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲
鳥取県倉吉市にある「第五十三代横綱琴櫻記念館」

琴桜 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 - 2007年8月14日)は、鳥取県東伯郡倉吉町(のちの鳥取県倉吉市)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄(かまたに のりお)[1]
来歴
幼少期?入門

1940年11月26日に、鳥取県倉吉町の借家地で警察官の子として誕生する。倉吉町立成徳小学校を卒業後、倉吉町立東中学校時代に実父から柔道を仕込まれ、本来は中学生では取得を認められていない段位を特例で認めてもらうほどの腕前にまで上達する。偶々柔道の全国大会のTV中継を見てその才能を見出し、そうして鳥取にやって来た佐渡ヶ嶽から熱心に勧誘された[2]が、周囲に反対されるもののどうにか了解を得て佐渡ヶ嶽部屋に入門、1959年1月場所に初土俵を踏んだ。卒業まで3ヶ月程残っていた鳥取県立倉吉農業高等学校には、特別に卒業扱いにさせて貰った。実質的に高校は卒業間近で中退したことに変わりはなく、孫の2代琴ノ若の大関昇進の際には「卒業間際に中退」と報道でも伝えられている。それでも本人は「中学卒業後に入っておけばよかった」「早く入門していれば、もっと早く横綱になっていたかもしれない」と高校に進学したことを悔いていた[3]。なお、相撲部は正部員ではなく助っ人扱いだったといい、それでも相撲の全国大会に出場するなど活躍したとのこと[4]

四股名は番付に初めて載った時は本名の「鎌谷」だったが、関取昇進時に「琴櫻」へ改名した。これは佐渡ヶ嶽の現役名「琴錦」に、故郷にある「打吹公園」が桜の名所であることから付けられたもの。番付では琴櫻と書かれ、“琴桜”と書かれたものは存在しないが、本人はサインなどでは「琴桜」と書いていたという。師匠たちに目をかけられていたため兄弟子たちからの僻みもあったが、毎日午前3時には土俵に降りて猛稽古に励んだことで力を付けていった[2]
三役昇進へ

最初は左下手を取って投げるのを得意としておりどうしても柔道の癖が取り口に表れていた[2]が、指導と琴ヶ濱貞雄との稽古で右四つの型を会得すると、1962年7月場所に十両へ昇進し、その場所を優勝。4場所目の1963年1月場所でも十両優勝を果たして3月場所に新入幕を果たした。1964年1月場所には新三役の場所6日目に、柏戸剛との取組で土俵上で足首を骨折する負傷で途中休場。翌場所も全休したため、十両まで陥落の憂き目に遭う[注 1]

休場して以降は本人曰く「まわしを取ると青竹で殴られた」「いつまでも腫れが引かない」という厳しい指導の下に己の相撲を改造し、怒濤の突き押し・強烈なぶちかましとのど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った[1]1967年9月場所では柏戸と佐田の山豊山北の富士と2横綱2大関を倒して11勝4敗という成績を残し、場所後に大関へ昇進する[1][注 2]1968年7月場所は13勝2敗の成績で幕内初優勝を果たした。

強くなるにつれて部屋には稽古相手がいなくなったため、出羽海部屋へ出稽古を行うようになった。琴櫻本人は後に「当時、名門の出羽海に出稽古なんて難しいはずなのに、師匠が頼み込んでくれた。その熱心さはどこにも負けないくらい、偉かった」と振り返っている[2]

大鵬幸喜には初顔から18連敗と全く歯が立たなかったが、1969年7月場所の初勝利以降は4勝4敗と健闘(最終対戦成績は4勝22敗)。大鵬が最後の幕内優勝を飾った1971年1月場所では唯一の黒星をつけた。しかし、負傷の多さから好不調の波が激しく[1]、綱取り場所で10日目を終わってトップに立っていながら終盤に5連敗するなど不本意な成績が続き、散々な罵声を浴びた上に負け越しもあったため、「横綱に上がることは無理だろう」と、陰口を叩かれていた。蹴手繰りを得意とする海乃山勇にも手を焼き、大関昇進以降は4勝7敗と分が悪かった(最終対戦成績は15勝13敗)。
横綱昇進?現役引退

角番で迎えた1971年7月場所では、11日目の大麒麟戦に勝った一番が「八百長ではないか」とファンから非難が集中しし、大麒麟とともに審判部から「今後このようなことがないよう」との厳重な警告を受けた[5]

1972年3月場所12日目に大関・前の山張り手で気絶・転がされた一番が相撲競技監察委員会から「無気力相撲」との警告を受けた[6]。前日の貴ノ花との対戦では二本を差されながら櫓投げに仕留める相撲を見せており、これが状況証拠として扱われてしまった。前の山は翌日から休場し大関から陥落、琴櫻は「自分の気持は休場するぐらいのものではない」[7]と言って出場を続け、14日目に優勝争いの先頭を行く平幕の魁傑を強烈なぶちかましで一蹴し、この場所優勝することになる弟弟子の長谷川の「援護射撃」[8]を果たすが、場所終盤の話題は「無気力相撲」一色となってしまった[注 3]。さらに5月場所は1勝しただけで残りを休場するなど、引退も噂され始めた。ところが、同じ二所ノ関一門出身であり自身が平素から懇意にしていた、相撲評論家の神風正一と対談した際に元気づけられ、横綱を目指す決意を固める。この年の11月場所では14勝1敗で3度目の優勝を果たすと、綱取りとなる1973年1月場所は前評判の高くない中[注 4]14勝1敗で連覇を果たす。

1月場所後の横綱審議委員会では約30分の審議の末、過去の角番3回や大関時代の勝率の低さ、年齢からくる将来性が不安視されたものの、連続優勝であること及び1月場所千秋楽の北の富士戦の内容が高く評価され、結果として8人の委員(出席5人、賛成の委任状3人)が全会一致で横綱推薦の答申を出した[9]


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