琴弾八幡宮
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琴弾八幡宮

本殿
所在地香川県観音寺市八幡町一丁目1番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度07分58.73秒 東経133度38分47.69秒 / 北緯34.1329806度 東経133.6465806度 / 34.1329806; 133.6465806 (琴弾八幡宮)座標: 北緯34度07分58.73秒 東経133度38分47.69秒 / 北緯34.1329806度 東経133.6465806度 / 34.1329806; 133.6465806 (琴弾八幡宮)
主祭神応神天皇
神功皇后
玉依姫命
社格等県社
創建大宝3年(703年
本殿の様式入母屋造
札所等新四国曼荼羅霊場 23番
さぬき十五社 14番
(元・四国八十八箇所 68番)
例祭10月第3土日曜日
地図
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琴弾八幡宮(ことひきはちまんぐう)は、香川県観音寺市琴弾山山頂にある神社。旧社格は県社源義経源平合戦の勝利を祈願をしたことで知られる。毎年10月には、琴弾八幡宮大祭が開催され9台のちょうさとよばれる太鼓台が奉納される[1]
寺史

当社の縁起は、権中納言・藤原実秋が応永23年(1416年)に記し、将軍足利義持が自ら官職押印を記した『七宝山八幡琴弾宮縁起』によると、大宝3年(703年)3月、西方の空が急に鳴動して黒雲が天を覆い、3日間、日や月を失った。そのとき琴弾山麓の梅掖の浜に一艘のがあり、その舟より神秘に響くの音が聞こえた。・日証が近寄ると「われは八幡大菩薩なり、朝家を守護するために宇佐より来たり。この地の風光を見て去るに忍びず」と告げ、また海浜が一夜にして竹林(現在の竹の渓)に変わる霊験もあったことから、里人数百人で、その船を神舟として琴とともに山頂に運び上げ、琴を添えて神殿を造営し祀ったのが始まりとされる[2]。社名の「琴弾」は縁起に由来する。

縁起は約700年後の後年になって記されているが、その縁起の霊験については、奈良時代初めには宇佐八幡宮が宇佐地域を中心に勢力を誇り、その後、瀬戸内海へも勢力が伸びていたことや、当社が四国における宇佐八幡宮の根拠地であったことを示しているとも考えられる[3]

霊験を除いた縁起としては、大宝3年(703年)文武天皇の勅命により僧・日証が宇佐八幡宮を勧請し、神宮寺として神恵院を開基、さらに法相宗道場として宝光院も開基したとされる[4]。のち、唐より帰国した空海が当地に留まり、弘仁3年(812年)に、神恵院第7世住職となる。空海は法相宗を廃し、自ら刻んだ聖観世音菩薩像を祀り真言宗に改め[4]、伽藍は奈良興福寺にならい東金堂、中金堂、西金堂の三金堂制とし、七堂伽藍を建立。七宝山観音寺と称したと伝わる[5]。それは、この地の地名が観音寺となった由縁でもある。観音寺の寺勢は興隆を極め、僧坊、あるいは塔頭を数ケ寺を数えたとされる[6]。また神恵院は別当寺として寺社両務を努め、当社の維持、管理を行っていた[5]

当社は一般人はもとより、皇室をはじめ、名だたる武将などにも崇敬が篤く、皇室勅願所、祈祷所となり、天皇、武将が祈願や奉納をした記録が多く残る(後述)[4]

貞享4年(1687年)の『四国遍路道指南』によると、当社は四国八十八箇所第68番札所で、観音寺が第69番札所であった[7]

明治の神仏分離令により当社の八幡神の本地仏・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)は、観音寺境内の西金堂に移し神恵院本堂とし、当社は琴弾神社と改名し神社単体として独立、四国霊場から切り離された。別当寺であった神恵院を第六十八番札所としたことで、一境内に2つの札所が並ぶこととなった[8][9]。のちの第二次世界大戦後、琴弾八幡宮と復称した[9]
源氏との関わり

当社と源氏との関わりは、源頼義の時代からで、頼義が陸奥守だった永承6年(1051年前9年の役の平定で、子・源義家と陸奥に出陣前に、伊豆守満綱を参拝させ、戦勝祈願の願文を納めている。また、義家の弟の源義光神馬馬具を奉納、のちに義家が本殿を改築し寄進している[10]

神恵院に伝わる弘化2年(1845年)の『弘化録』によると、源義経は、平家との決戦前に当社へ訪れ平家との戦勝祈願願文に「源氏と当社との縁は代々深く、・・・」と記し本殿前で読み上げたとあり、義経は先祖が当社を崇敬していたと把握していることが窺える。また願分とともに「望月」と名付けた神馬、木の鳥居を奉納している[11]。その鳥居は現在も、参道に残る。

また、屋島で平家を破った義経は、瀬戸内海を西へ落ち延びる平家を追うために、各地の水軍に支援を求め、水軍が到着するまでの間、当社を中心に琴弾山から麓の財田川河口に陣を張ったとされるが、琴弾山は燧灘が一望でき、河口は静かな渚が続くため、水軍の基地に最適な場所であったとされる[10]
権力者による参詣、奉納、寄進

以下の記録が残る[12][13]

仁和4年(888年) - 菅原道真讃岐国司となったさいに祈雨のため参詣。

永承6年(1051年) - 源頼義は前九年の役の平定前に、伊豆守満綱が代理で参詣し願文を奉納。

延久5年(1073年) - 源義光は神馬、馬具を奉納。

永保3年(1083年) - 源義家の代理が参詣し武運長久を祈願。

嘉保2年(1095年) - 源義家は社殿を造営。

嘉保2年(1095年) - 源義光が参詣し、米100石、幕、その他多数奉納。


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