琴奨菊
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琴奨菊 和弘

琴奨菊
基礎情報
四股名琴奨菊 和弘
本名菊次 一弘
愛称キク、ボロ奨菊[注 1]、柳川の石臼[注 2]
生年月日 (1984-01-30) 1984年1月30日(40歳)
出身福岡県柳川市
身長180cm
体重177kg
BMI54.63
所属部屋佐渡ヶ嶽部屋
得意技左四つ、ガブリ寄り
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴828勝676敗41休(112場所)
幕内戦歴718勝621敗41休(92場所)
優勝幕内最高優勝1回
十両優勝1回
殊勲賞3回
技能賞4回
データ
初土俵2002年1月場所
入幕2005年1月場所
引退2020年11月場所
引退後年寄・秀ノ山
趣味釣り、アロマオイル[2]
備考
金星3個(白鵬1個、日馬富士1個、稀勢の里1個)
2021年1月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

琴奨菊 和弘(ことしょうぎく かずひろ、1984年1月30日 - )は、福岡県柳川市出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した元大相撲力士。本名は菊次 一弘(きくつぎ かずひろ)[3]身長180cm、体重177kg[4]。血液型はO型。得意手は左四つ、がぶり寄り。最高位は東大関。愛称はキク。好物はしゃぶしゃぶプリン[2][5]。既婚。左利き。締め込みの色は引退時で青色。現在は、年寄・秀ノ山[6]
人物
大相撲入門前

建設会社の社長をしている父の下で、3人兄弟の末っ子となる三男として生まれる。柔道山下泰裕物語に影響された祖父の下、小学3年生で相撲を始める。女児が欲しかった母が優しく育てたせいか、小学2年で柔道を始めたものの、女子相手に全力を出せない気弱な性格で、それを見かねた祖父が、相手が男だけで手加減なしに取り組める相撲への転身を勧めた。祖父がつくった土俵で1日2時間の稽古を行い、隣のグラウンドでは100メートルのタイヤ引きを1時間かけて40本行い、牛乳は毎日1リットル飲み、学校にはにぼしを持参、という相撲の英才教育を受けた[7]。ソフトボールで4番打者を務めた経験もある。幼少期から体は大きく、ソフトボールの試合には子供サイズのユニフォームが着られないため監督のものを借りて出場した。そのため背番号が30という本来の少年ソフトボールではありえない事態もあった[8]。幼少時に、地元に巡業で訪れた貴花田(後の横綱・貴乃花)の膝に乗せられて記念写真を撮ったことが相撲を続ける上での大きな励みになったという[9]。大相撲巡業柳川場所に関しては、他にも大至伸行に胸を出してもらったことがある[10]。小学校時代は休みを貰うにも父に伺いを立てなければならなかったが、言い出すのも難しくて殆ど頼まなかった。角界入り後、当時通っていた小学校の担任教師は「(琴奨菊と同じ相撲大会に参加した)クラスのみんなは『毎日あれだけ稽古をやっている菊次君には勝てない』と言っていたぞ」と教えてくれた。2008年に76歳で死去した祖父は、当時勝てなかった「県で一番強い宮崎君」がいた久留米市の井上道場まで車で1時間かけて週3回送迎してくれて、帰りにステーキをごちそうしてくれた[11]。一方、大会前に精力を付けるために「グレープジュース」と騙してスッポンの生き血を飲ませる等のスポ根ドラマのようなこともしていた[12]。小学校の卒業文集には武双山、土佐ノ海、琴錦、魁皇のような力士になりたいと書き、横綱になって明治神宮で土俵入りする夢を記した[12]

高知県明徳義塾中学校に相撲留学し、朝昼晩の先輩への給仕や洗濯などの身支度は中学時代の寮生活で初めて経験した。「生きる知恵は明徳の6年間で学んだ」と本人は後に語っている[11]。3年生となった1998年には全国中学校相撲選手権大会で優勝して中学横綱となり、その後、明徳義塾高校に進学して活躍した。中学・高校と、苦しさや辛さはあまり感じず、寧ろ「もっと強くなれるんじゃないか」という気持ちの方が大きく、在学中は福岡の両親に自ら連絡することもほとんどなかったという[11]。高校2年になると、教員の合議で決まる生徒会長に推された。反対したのは、菊次のの練習時間が減ることを懸念した監督の浜村敏之だけだった。浜村は、練習時間が確保できるよう周囲の協力を取り付けた上で生徒会長就任を渋々受け入れた[13]。小学生のころから佐渡ヶ嶽親方の知遇を得ており、初心通りに佐渡ヶ嶽部屋へ入門した。後年になる2019年10月26日の秋巡業広島場所で、角界入りした理由について4人の小学生男女から聞かれた際に「親孝行をしたかったから」とユーモアめかして答えていた[14]
大相撲入門後?大関昇進

2002年1月場所に琴菊次(こときくつぎ)の四股名初土俵を踏んだが、当初は誤って「こときくじ」と読まれることが多かったという。序ノ口序二段は各1場所、三段目も2場所で昇進と順調に出世したが、幕下昇進後は7場所で負け越し3度と上位の壁に苦しむ。立ち合いで上体が立つ癖があったが、竹縄親方(元・琴錦、現朝日山)の指導により、上体の前傾姿勢が土俵と水平に近くなり、圧力が増すようになる[15]。入門当時は全く芽が出ず、師匠から容赦なく「弱い」と突き放された。12代佐渡ヶ嶽(第53代横綱・琴櫻)の印象は「厳しいことしか言われた記憶がない」ほど、弟子には厳しい存在だった。アマチュア時代は四つ相撲を得意としていたが、師匠の教えで突き押しに転向。ひたすら押しまくる稽古で、がぶり寄りを習得した[13]

2004年1月場所から3場所連続で勝ち越し、7月場所に新十両へ昇進、この時に佐渡ヶ嶽から「人から尊敬される力士になれ」との意味で送られた「琴奨菊」の四股名を得る[7]。十両昇進後は3場所連続で勝ち越し、2005年1月場所に新入幕を果たした。新入幕となった1月場所では5勝10敗と大きく負け越して、翌3月場所には十両へ陥落したが、その3月場所で13勝2敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、同年5月場所に再入幕を果たすと、その後は幕内上位に定着した。前頭筆頭に昇進し三役昇進が期待された2006年7月場所では3勝12敗の大敗に終わるが、前頭2枚目で迎えた同年11月場所では10勝5敗の好成績を挙げて初の技能賞を受賞した。

前頭筆頭に据え置かれた2007年1月場所では栃東魁皇の2大関を破る活躍を見せて9勝6敗と勝ち越し、翌3月場所では一気に西関脇へ昇進した。その3月場所では7勝8敗と負け越し、西小結へ下がった同年5月場所でも千秋楽出島に敗れて7勝8敗と負け越し、翌5月場所では平幕へ陥落した。小結へ復帰した2007年11月場所では初日に横綱白鵬に初めて勝利して、9勝6敗と勝ち越しを果たして2回目の技能賞を受賞した。翌2008年1月場所では9日目から途中休場したものの、12日目から再出場して9勝を挙げた。西関脇へ復帰した翌3月場所では12日目に横綱・朝青龍に初めて勝利し、8勝7敗と勝ち越しを決めて初の殊勲賞を受賞した。翌5月場所でも8勝7敗と勝ち越したものの、翌7月場所では6勝9敗と負け越して5場所連続して務めた三役から陥落した。以降は大関昇進を期待されながらも、2008年9月場所から2009年5月場所にかけては5場所連続で平幕に留まるなど、三役には定着しきれない日々が続いた[9]

西関脇の位置で迎えた2011年1月場所では11勝4敗という好成績を挙げて、三役では初めてとなる二桁勝利を挙げて3回目の技能賞を受賞した。稀勢の里と入れ代わる形で、自身初となる東関脇の位置で迎えた続く5月技量審査場所では、終盤に失速したものの関脇の位置で2場所連続しての二桁勝利となる10勝5敗の成績を挙げた[9]

大関獲りへの挑戦となった翌7月場所では、初日に豊ノ島に敗れたものの、以降は9日目に日馬富士に敗れる以外は白星を重ね、11日目には横綱・白鵬も破り、大関獲りが実現する雰囲気が一気に高まったものの、13日目に平幕の隠岐の海に敗れ、続く14日目にも平幕の若の里に敗れてしまい、最終的には11勝4敗の成績となり、2回目の殊勲賞は受賞したものの、大関獲りは次場所への持ち越しとなった[9]。この好機を逃したことを本人は「次はない。あれで上がれないんだから自分は上がれないんだろう。」と嘆き、場所後は朝起きるのもいやなくらいだったという。しかしその頃ちょうどNHKの番組「アスリートの魂」の密着取材を受けていたため「一日中テレビカメラを向けられて、気持ちが乗らなくても稽古しないわけにいかない。


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