琳聖太子
[Wikipedia|▼Menu]

琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子[1][2]武寧王の孫とされる。名は義照。威徳王の孫で餘璋の子とするものもある[3][4]。百済王の齋明の第三子とも[5]
概要

15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない[6]

大内氏の百済との繋がりを名乗り始めた大内氏当主が、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる[7]。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。外来系の諸侯がいたところで不思議ではないが、それがどこまで世間の「歴史常識」となっているかは疑問であり、外来系と称していながら、ほんとうは怪しいといったケースも多々あり、とくに外来系という系譜を持った家は、大内家に代表される西日本に多い[6]。「大内」というのは、その居所の広さを時の人が尊んでいったもので、琳聖太子9世の子孫のときから、それを名字にしたというが、福尾猛市郎によると、琳聖太子などというのは、この大内家の先祖に関してしか出てこない名前であり、実在を証明する史料はない[6]。大内家の家系伝承室町時代にできたものとみられ、文献的には応永年間(1394年から1427年)以前には遡れないというのが学界の多数説である[6]

李朝実録』によれば、大内氏は応永6年(1399年)に朝鮮へ使節を派遣し、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。その要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が同氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知られており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述がみえる。

江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』において、「蜀漢劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、北宋趙匡胤趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。日本の戦国武将の系図にも同様の例が多い」と述べている[8]
家系聖王(聖明王)  ┃琳聖太子  ┃琳龍太子  ┃阿部太子  ┃世農太子  ┃世阿太子  ┃阿津太子  ┃大内正恒
現在

大内家の45代当主だという船橋市在住の男性が、2009年に韓国益山市にある百済王陵を訪れ、歓迎を受けた[9][10]

琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀四丁目の乗福寺に残っている。
脚注^ 松田甲『日鮮史話 第2編』朝鮮総督府、1926年、1頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981486/6。 
^ 『山口県史 上巻』山口県史編纂所、1934年、60頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226148/100。 
^ 大森金五郎『国史概説』日本歴史地理学会、1910年、481-484頁。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:17 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef