琢如
寛永2年7月2日 - 寛文11年4月14日
1625年8月4日 - 1671年5月22日
上段・旧暦(宣明暦) 下段・グレゴリオ暦
幼名茶々麿
法名琢如
号愚玄
院号淳寧院
諱光瑛
尊称琢如上人
宗旨浄土真宗
宗派(後の、東本願寺系諸派)
廟大谷祖廟
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琢如(たくにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十四代法主[1] 。「琢」ではなく、「琢」の字を用いるのが正式の表記である。
学寮(現、大谷大学)の創設、大谷御坊(現、大谷祖廟)の造営と活躍した。 年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。また、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記した。
生涯
寛永2年7月2日[2](1625年8月4日)、東本願寺第十三代 宣如の第2子(次男)として誕生。母は九条幸家の娘。
のちに伯父九条道房の猶子となる。
寛永15年(1639年)、得度。
承応2年(1653年)、宣如の隠居により第十四代法主を継承。
寛文4年(1664年)11月、隠居し東本願寺法主を長男・常如に譲る。
寛文5年(1665年)、本山敷地内に学寮を創設する。
寛文10年(1670年)8月2日、東本願寺境内の親鸞及び本願寺歴代の仮墓を、教如・宣如の両墓と共に、本願寺発祥地近くの東山大谷(現、京都市東山区)の地に祖廟を移転し、「大谷御坊」と称し造営に着手する。
寛文11年(1671年)4月14日、47歳にて示寂。
脚注[脚注の使い方]^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十四代法主」と表記した。
^ 『日本仏家人名辞書』(光融館、1903年)338頁
表
話
編
歴
本願寺
本願寺寺基の移転と分立
東西分立前
(本願寺の歴史)
大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ?
東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
→ 本願寺(通称:「六条門跡」・「本門」→「西本願寺」)1591(1603) -
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
⇒ 本願寺(通称:「信淨院本願寺」・「七条本願寺」→「東本願寺」)1603 - (1987) → (東本願寺分派)?
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
本願寺(東本願寺)1603 - 1987 → 真宗本廟(通称:東本願寺・本願寺)1987 -
1988 - 浄土真宗東本願寺派
東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -
浄土真宗大谷本願寺派
(本願寺文化興隆財団)
⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -
本願寺(京都市右京区)
⇒ (嵯峨)本願寺2005 -
東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている ⇒『宗憲』第十三条。