(国章)
国歌: 石なぐの歌(事実上)[1]
奄美群島を含む最大版図の頃の琉球王国
言語琉球諸語(主に沖縄語)
首都首里[2]
国王→藩王
1429年[注 1] - 1439年尚巴志王(初代)
1469年 - 1476年尚円王(第二尚氏初代)
1847年 - 1879年尚泰王(最後)
三司官(最後)
1872年 - 1879年浦添親方朝昭
1875年 - 1879年富川親方盛奎
1877年 - 1879年與那原親方良傑
面積
1571年 - 1609年[3]3,454km²
1609年以降[3]2,223km²
人口
1632年[4]108,958人
1729年[4]173,969人
1879年[5]286,787人
変遷
王国成立(三山の統一)1429年頃
第二尚氏王統成立1469年頃
琉球藩設置1872年10月16日
琉球藩廃止・沖縄県設置1879年4月4日
現在 日本国
沖縄県
鹿児島県
1. ^ 琉球藩時代も含む。
2. ^ 現在の那覇市首里に相当。
3. ^ いずれも推定(実効支配面積)。1609年以降、奄美群島は薩摩藩の実効支配下となる。
4. ^ 薩摩藩による人口調査「宗門手札改」による。『図説琉球王国』(高良倉吉・田名真之 編、河出書房新社、1993年)参照。
5. ^ 『沖縄門中事典』(宮里朝光 監修、那覇出版社、2001年)参照。
琉球王国(りゅうきゅうおうこく、沖縄語: 琉球王國(ルーチューヲークク))は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家であるが、正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」というネーミングは琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに初代沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である[2][3]。 沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下においた。当初はムラ社会(シマ)の豪族であったが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には国家の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、他方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であった。 1609年の島津氏による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる(「掟十五条」)保護国となったものの、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は島津氏による介入をさほど受けず[注 2]、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。同国に属した事がある範囲の島々の総称として、琉球諸島ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。世界中で見られる巴文様であるが、紋としての使用は日本文化圏[4]のみである。 勢力圏(最大版図)は、奄美大島、沖縄本島、宮古島および石垣島の他、多数の小さな離島の集合で、最盛期の総人口17万ほどの小さな王国であった。しかし、日本の鎖国政策や隣接する大国明・清の海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[注 3]との深い結び付きが知られる。 琉球王国は明及びその領土を継承した清の冊封下に組み込まれていたが、1609年(万暦37年・慶長14年)に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩と清への両属という体制(中華帝国の明・清の元号と日本の朝廷の元号の両方を施行する国家体制)を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。 「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷伝 流求国」が初出である。同書によると、「607年(大業3年・推古天皇15年)、隋の煬帝が「流求国」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌608年(大業4年・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久国人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った。帝は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。同書は「流求国」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい。なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。 「琉球」に落ち着いたのは明代以降であり[5]、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされ、14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の3国(三山時代)に対して明が命名したものであり、それぞれ琉球国山北王、琉球国中山王、琉球国山南王とされた。このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国が興る事になるが、国号と王号は琉球国中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。 なお、鎌倉時代にあたる1305年(大徳9年・嘉元3年)の称名寺所蔵行基図、14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』には南島の領域として「竜及国」と記されており、これは三山の冊封貿易開始よりも前である[6]。 ただし、第二尚氏の当主である尚衞は、雑誌『正論』で行われた、ジャーナリストの仲村覚との対談の中で、「尚家が保有する地図を見ると、琉球国と記述されていますので、『琉球国』が正しい呼称です。」と断言している[7]。 一方で、「琉球」は隋が命名した他称であり、内政的には古くから自国を「おきなわ」に近い音で呼称していたとする事実がある[8]。 「おきなわ」の呼称は、淡海三船が記した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年・宝亀10年)の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに「阿児奈波(あこなは)」と答えたのが初出であり、少なくとも鑑真らが到着した753年(天平勝宝5年)には住民らが自国を「おきなわ」のように呼んでいたことが分かる。また「おもろさうし」には平仮名の「おきなわ」という名の高級神女名が確認され、現在も那覇市安里に「浮縄御嶽(ウチナーウタキ)別名:オキナワノ嶽」という御嶽が現存し、県名の由来とされている[9]。 その他にも国内外の史料に「浮縄(うきなわ)」、「悪鬼納(あきなわ)」、「倭急拿(うちなー)」、「屋其惹(うちな)」といった表記が散見される。なお、現在の「沖縄」という漢字表記はいわゆる当て字であり、新井白石の『南島誌』(1719年・享保4年)でまるで「沖」に浮かぶ「縄」のように細い島であるという表現が使われたのが初出で、長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。 この「沖縄」が琉球処分後の県名に採用され、今日では一般化している[10]。 『隋書』における「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』『通典』『諸蕃志』においては『隋書』の記述を蹈襲し、『太平寰宇記』(宋代の地理書)においても内容に大差はなかった。元代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾と沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。 その後13世紀まで、北から@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}奄美群島・沖縄諸し[要校閲]、冊封に下った[要校閲][疑問点 – ノート]ことで認識が高まり、沖縄地方を「大琉球」、台湾後[要校閲]、「琉球」は琉球王国の勢力圏す[要校閲]地域名称として定着していく。
概要
地政
国号
琉球
沖縄
「琉球」が指す範囲の変遷
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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