理科教育
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理科教育(りかきょういく)とは、教科理科」についての教育活動・内容などの総称。広義には、日本での学校教育小学校中学校高等学校)における科学教育全般を指している(日本以外の類似する教育分野は主として「科学教育」と呼ばれる)。自然科学に関する教育活動全般の他、環境教育[1]食育なども理科教育に含められることがある。また、理科教育振興法で規定される「理科教育」には学校教育の「理科」に加え「数学」の分野も含まれている。

しかし、日本の小学校・中学校・高等学校における理科教育活動を狭義にとらえた場合、日本以外の科学教育を参考にしながら科学教育の望むべきあり方を目指してはいるものの、その内容は、純粋な科学教育とは少し異なる日本独自の変遷をたどっている[2](詳細は後述)。具体的な学習内容は学年により大きく異なるが、主として「理科に関する知識の習得およびその活用」がその目標となっている。

なお、理科教育のなかで特定の領域について考えるときには、「物理教育」「化学教育」などと細分化される場合がある。また、理科教育全般を取り扱う研究分野は「理科教育学」と呼ばれ、教育学教科教育学)の一分野として位置づけられる。教科「理科」およびその学習内容の詳細については「理科」を、日本国外における対応する教育分野については「科学教育」を参照
歴史
「理科」以前

江戸時代の初期より、渋川春海が中国や西洋の知識を取り入れて改暦を行ったり、関孝和が独自にベルヌーイ数を発見するなど、日本でも近代的な科学の知見を有する優秀な学者が登場するようになっていた。しかし、彼らは独自に師を得て、知識を得ていった学者たちである。明治時代になるまで、日本にはそもそも国家が全国民に「制度として」行う教育がなく、庶民は寺子屋で学ぶことが多かった。その寺子屋では「読み・書き・そろばん」が主な内容であったが、地域の要求によって、他の分野(産業など)も教育内容に加えられていた。

一方、1720年享保5年)の八代将軍徳川吉宗による享保の改革により、「洋書輸入の禁」が緩和された頃から蘭学が成立し、個人的にではあったものの、近代科学蘭学塾で伝承され始めた。書物の翻訳が主目的であったが、輪読にとどまらず、そこからさらに深く科学を追究する者も現れた。

そして、1854年(安政元年)の開国をきっかけに、江戸幕府は、国防上の必要性から、欧米の科学技術を積極的に取り入れる方針をとった。長崎海軍伝習所蕃書調所など、科学技術を教える藩校が設けられた。明治維新後は西洋文明を積極的に取り入れるようになり、福沢諭吉の『窮理図解』など、先進的な洋学者の手によって科学啓蒙書が相次いで出版された。

日本の歴史において、「理科」という単語が登場したのは、青地林宗文政10年(1827年)に著した「氣海観瀾」などがある。青地は、オランダ語の「Natuurkunde(物理学)」の訳語として「理科」という単語を使っており、「理科は物則の学なり。其の効用を察し、諸を器数に徴し、諸を測験にしらぶ」と書いている。これを端緒とし、以後、宇田川榕庵の「舎密開宗」や赤坂圭斉の「理学初歩」など、日本の科学書において、「理科」という単語が受け継がれていく事となる[3]
「学制」頒布と、科学教育への試行錯誤

1872年(明治5年)の学制頒布時に、はじめて、理科の前身に当たる科目が設けられた。そこでは、近代科学の合理的な自然観が内容として取り上げられるようになった。これは科学的な考え方を養うことに重点を置いたもので、「当時、どの国にも科学教育に大きな比重をかけたものはなかったであろう」[4]という評価もある。

しかしながら、当時、科学教育を受ける段階に進んだ子どもも少なかった上[5]、教師自身も科学について学びながら指導している状態であった。

また、この時期の師範学校などでの教師教育は、科学教育に関連することも含め、外国の教育法の直輸入が図られるようになっていた。これに対し、「明治初年の科学啓蒙の精神を忘れ、欧米の技術教育の取り入れに懸命になってしまった。」[6]と、科学教育の理想的な側面から次第に離れていったことを指摘する者もいる。

さらに、カリキュラム教科書の編成が徐々に文部省主導で進むようになり、1877年(明治10年)頃に取り上げられた科学の教科書には、『物理階梯』『具氏博物学』など、文部省が洋書を翻訳したものが多くなった。そして、学校の現場では、教科書と黒板によって知識注入・暗記する方法が主にとられていた。
「理科」の成立学習院高等学科二部第二年級の物理学授業(1915年)

1886年(明治19年)の学校令で、いままで複数の学科に分かれていたものが「理科」という1つの科目にまとめられ、実質的な理科の内容が決定づけられた。1891年(明治24年)の「小学校教則大綱」には、「第八条 理科ハ通常ノ天然物及現象ノ観察ヲ精密ニシ其相互及人生ニ対スル関係ノ大要ヲ理会セシメ兼ネテ天然物ヲ愛スルノ心ヲ養フヲ以テ要旨トス」[7]と記され、このとき、「科学的な考え方の初歩」を教えるのではなく、自然の事物・人工物(道具類)・自然現象について教えるように方針転換された。つまり「目に見えるものの実験・観察」に重点が置かれることになった。

この流れを受け、1904年(明治37年)の国定教科書制定当初、理科については定められなかった。これは、「教師が教科書に頼って、実験を行わないのでは」という危惧があったためである。


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