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やノートページでの議論にご協力ください。理性(りせい、希: λόγο?、羅: ratio、仏: raison、英: reason、独: Vernunft)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。知識・認識や判断の源泉として、この理性に依拠する態度を理性主義と言う。
哲学における理性詳細は「理性主義」を参照
知性と理性の区別はギリシア哲学におけるヌース(知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。また、古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともにロゴスであったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、ロマンス語や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。セネカによればこれはキケロによる訳語であるという。
こうした語の由来は、西欧の伝統において、理性や論理を類比的な方法・秩序として考える傾向をもたらした。こうした、理性的推論を比例モデルで理解する時一番典型的なのが、三角測量や、特定の時刻での影の長さと棒との比例関係から、直接計れないピラミッドの高さを、その影の長さを基にして推論するような場合である。
現代の英米圏の哲学(分析哲学)にしばしば見られるように、理性は日常的に悟性(狭義の知性)と混同した用法で(広義の知性として)使われるが、スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。 ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。 理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。 一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。
ショーペンハウアーによる定義