球磨川
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この項目では、九州地方の河川について説明しています。JR九州の特急列車「くまがわ」については「かわせみ やませみ」をご覧ください。

ロシアの「クマ川」とは異なります。

球磨川
球磨川(JR肥薩線白石駅付近)
水系一級水系 球磨川
種別一級河川
延長115 km
平均流量103.98 m³/s
(横石観測所 2000年)
流域面積1,880 km²
水源石楠越・水上越(熊本県)
水源の標高-- m
河口・合流先八代海(熊本県)
流域 日本 熊本県


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球磨川(くまがわ)は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し、川辺川をはじめとする支流を併せながら、八代平野に至り八代海(不知火海)に注ぐ一級河川で、球磨川水系の本流である。熊本県内最大のであり、最上川富士川と並ぶ日本三大急流の一つ。日本二十五勝にも選定されている。
概要

かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き、水運に利用するのが難しかったが、相良氏22代当主相良頼喬叔父丹波篠山出身の林正盛が、1662年寛文2年)から私財を投げうって開削事業に着手し、無数の巨岩を取り除く難工事の末、1665年(寛文5年)には川舟の航行が可能な開削が完成した。以来、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献を果たしてきた。

肥薩線の開業と道路の整備、林業の衰退やダム建設などのため、球磨川の水運は縮小し、現在は観光用の川下り船の運航程度である。

川の水は、流域内の約14,000haに及ぶ耕地の農業用水や、八代平野の臨海工業地帯における製紙パルプ金属加工製造業などの工業用水、流域内の20箇所で行われている水力発電などに利用されている。

八代海に注ぐ河口付近には、1,000haを超す干潟が形成されており、日本の重要湿地500に選ばれている。一年を通じて野鳥が飛来し、その種類は90種類以上となることから、バードウォッチングが盛んであり、重要野鳥生息地 (IBA) にも指定されている。
語源

語源は不明である。明治初期には、求麻・求磨・球磨と様々な字が使われていたが、名前の由来については明確な記録が残っていない。

ただし、1772年に著された『肥後日誌』には「この川水は九万他により落ち入る。故に九万川と称すとも云う」「木綿葉川或いは結入川、また夕葉川とも書す。球磨川とも称す…水上球磨郡より流れ来る故に球磨川とも云う」との記載がある。つまり「九万の支流を持つ川」あるいは「川上の球磨郡から流れて来た川」として名付けられたとみられる[1]
災害史「市房ダム」、「荒瀬ダム」、および「川辺川ダム#令和2年7月豪雨」も参照

1669年寛文9年)8月 - 青井阿蘇神社楼門が約1m浸水。死者11人、浸水家屋1432戸[2]

1755年宝暦5年)6月 - 山津波が発生し、瀬戸石付近で堰止湖が形成され決壊。八代の萩原堤が決壊。死者506人、家屋流出2118戸、田畑被害220km2[2][3]

1888年明治21年)6月 - 橋梁流出が発生。死者3人、家屋流出6戸[2]

1926年大正15年)7月 - 井出(農業用取水施設)2か所が全壊。家屋流出3戸、浸水家屋200戸[2]

1937年昭和2年)8月 - 家屋損壊・流出32戸、浸水家屋500戸[2]

1944年(昭和19年)7月 - 家屋損壊・流出507戸、浸水家屋1422戸[2]

1949年(昭和24年)- デラ台風ジュディス台風による洪水浸水被害。

1950年(昭和25年)- キジア台風による洪水で浸水被害。

1963年(昭和38年)8月 - 家屋損壊・流出281戸、床上浸水1185戸、床下浸水3430戸[2]

1964年(昭和39年)8月 - 家屋損壊・流出44戸、床上浸水753戸、床下浸水893戸[2]

1965年(昭和40年)7月2日 - 球磨川大水害または昭和40年7月洪水。1,281戸が流失・損壊。床上浸水2751戸、床下浸水10074戸[2]。浸水深さ2.1m(2020年7月の水害が起きるまで戦後最大)。

人吉市、八代市周辺だけで約9000戸が浸水被害[4]


1966年(昭和41年) - 球磨川水系の川辺川で、建設省治水ダムとして川辺川ダムの計画を発表。

1971年(昭和46年)8月5日 - 台風19号の豪雨により氾濫。家屋の損壊209戸、床上浸水1,332戸、床下浸水1,315戸[5]市房ダムが満水状態となり洪水調節機能がマヒ[6]。浸水深さ1.1m。

1972年(昭和47年)7月 - 昭和47年7月豪雨により64戸が損壊。

1982年(昭和57年)7月 - 昭和57年7月豪雨により47戸が損壊。

1992年平成4年) - 人吉市など流域自治体で川辺川ダム建設反対運動が始まり、「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す会」が発足。

1993年 - 川辺川ダム建設反対運動団体が「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」に改組。

2002年(平成14年) - 旧坂本村議会(現:八代市)が熊本県に対し、荒瀬ダム撤去を求める請願を提出。

2004年(平成16年)8月 - 台風16号により49戸が浸水。

2005年(平成17年)9月 - 台風14号により119戸が浸水。

2006年(平成18年)7月 - 平成18年7月豪雨により80戸が浸水。

2008年(平成20年)

6月 - 豪雨により33戸が浸水。

9月 - 蒲島郁夫熊本県知事が、川辺川ダム計画の反対を表明[7]

10月、蒲島郁夫熊本県知事と金子一義国土交通大臣が「ダムによらない治水を検討する場」を設置することで合意[8]


2009年(平成21年)

1月 - 国と熊本県と流域市町村による「ダムによらない治水」へ向けた協議開始。


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