球磨川電気
[Wikipedia|▼Menu]

球磨川電気株式会社種類株式会社
本社所在地 日本
熊本県球磨郡人吉町字五日町36番地
設立1912年(大正元年)7月
解散1940年(昭和15年)2月1日
熊本電気と合併)
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者中島為喜(社長)
公称資本金652万5000円
払込資本金同上
株式数13万500株(額面50円払込済)
総資産1259万2205円
収入96万6572円
支出67万347円
純利益29万6225円
配当率年率8.0%
主要株主熊本電気 (50.7%)
決算期4月末・10月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1938年10月期決算による[1][2]
テンプレートを表示

球磨川電気株式会社(くまがわでんきかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。九州電力送配電管内にかつて存在した事業者の一つ。

熊本県人吉市にあった電力会社で、熊本県南部を中心に供給した。開業は1913年(大正2年)。開業時の社名は人吉水力電気株式会社(ひとよしすいりょくでんき)で、球磨川水力電気株式会社を経て1920年(大正9年)から球磨川電気と称した。1940年(昭和15年)、親会社の熊本電気(九州電気)へ合併された。
沿革
設立と開業

1891年(明治24年)7月、熊本市で熊本電灯が開業した。同社は九州最初の電気事業者である[3]。ところがこの熊本電灯は経営不振と金融恐慌によって破綻してしまい、1902年(明治35年)に債権者であった安田家経営の第九銀行に事業が引き取られ、熊本電灯所となった[4]。その後1909年(明治42年)になって安田家と旧熊本藩細川侯爵家の共同出資によって熊本電気株式会社が発足、熊本電灯所の事業を引き継いだ[5]

安田家により熊本電灯所が起こされた際、所長兼主任技師としてその再建を任されたのが技師坂内虎次である[4][6]。坂内は熊本電灯所が1904年(明治37年)に株式会社組織となると社長に就任し[5]、熊本電気でも支配人兼技師長を務めたが[7]、水力発電所建設をめぐる社内の紛糾を機に熊本電気から退いた[8]。その後は熊本県南部、球磨川沿いの球磨郡人吉町(現・人吉市)にて電力会社の設立に関与する[8]。そして1912年(明治45年)7月に人吉水力電気株式会社が発足[9]すると、坂内はその初代社長となった[8]。設立時の人吉水力電気の資本金は10万円であった[8]

人吉水力電気は、球磨川支流の胸川に出力103キロワットの小規模水力発電所(大塚発電所)を建設、人吉町ほか2村を供給区域として1913年(大正2年)11月に開業した[8]。その後球磨郡内で供給区域を拡大し、1918年(大正7年)7月実態にあわせ球磨川水力電気へと改称[8]1919年(大正8年)には電灯数が1万灯に達し、需要増加に応じて出力45キロワットのガス力発電所も新設した[8]
事業拡大

1920年(大正9年)5月、真幸電気株式会社を合併し、同時に球磨川水力電気から球磨川電気へと改称した[8]。以後、1926年(大正15年)にかけて、以下の電力会社を次々と合併していった[8]
真幸電気株式会社
人吉の南、宮崎県西諸県郡真幸村(現・えびの市)の会社で、1917年(大正6年)8月に設立[10]1919年(大正8年)開業で、西諸県郡の3村と、さらに南の鹿児島県姶良郡吉松村(現・湧水町)を供給区域としていた[11]
佐敷水力電気株式会社
1924年(大正13年)6月合併[8]。熊本県葦北郡佐敷町(現・芦北町)の会社で、1918年(大正7年)2月に開業して佐敷町と葦北郡・球磨郡の計5村を供給区域としていた[12]
厳原電力株式会社
1924年6月合併[8]。人吉から遠く離れた長崎県対馬下県郡厳原町(現・対馬市)の会社で、1912年4月に開業[8]。球磨川電気の傘下に入っていたようで、1921年から坂内虎次が代表を兼ねていた[8]
天草電灯株式会社
1925年(大正15年)6月合併[8]。熊本県天草郡志柿村(現・天草市)の会社で、1912年7月に設立[13]。同年11月に開業し、合併時には天草郡の29町村に供給していた[8]
都城電気株式会社
1926年4月合併[8]。宮崎県都城市の会社で、1909年6月に設立[14]。翌1910年7月に開業し、1925年4月時点では都城市のほか北諸県郡11村と鹿児島県囎唹郡7町村を供給区域として電灯6万1,841灯、電力1,316馬力を供給していた[8]。当時同社は供給力不足の状態にあり、発電力増強を目指す都城電気と経営拡大を図る球磨川電気の方針が一致して合併となった[8]。1926年1月に都城電気と合併契約を締結した際、都城市との間でも市域の事業を譲渡(市営化)する契約を結んでおり、合併後の1927年(昭和2年)8月になって都城市は市域の電気事業一切を球磨川電気から78万円で買収した[15]

相次ぐ合併により電灯数は1925年に4万9千灯となり、さらに翌年の都城電気の合併で一挙に12万7千灯へと拡大した[8]。1927年に都城市域は市営電気事業に移行したものの、市営事業の電源はすべて球磨川電気からの受電によった[15]。また電力供給は、従来供給区域が山間部のため小規模であったが、これも都城電気の合併で2千馬力台へと拡大している[8]。1926年9月、初めての大型発電所として出力2,000キロワットの白水滝発電所が完成[8]。翌年9月にも同じ球磨川水系にて出力1,920キロワットの新橋発電所が運転を開始した[16]
熊本電気の傘下となる熊本電気第4代社長上田万平

1927年9月、熊本電気では社長に元内務官僚の上田万平が就任[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef