21世紀を迎えた現代音楽の現状は、「影響が世界中に拡散した」ことが19世紀のクラシック音楽以前と異なる点である。この現状に対応するために、現代音楽/地域別の動向(げんだいおんがく/ちいきべつのどうこう)では、各地域ごとの動向を解説する。 1950年代のヨーロッパの現代音楽の方向性を決定付けるのに、戦前より開始されたドイツのドナウエッシンゲン音楽祭や、戦後に始められたダルムシュタット夏季現代音楽講習会(現在は隔年開催)の果たした役割は大きい。特にダルムシュタットの講習会は、初期にはピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルイジ・ノーノ、ルチアーノ・ベリオなどがここで活躍し、前衛的な音楽を探求した。後にはジョン・ケージやジェルジ・リゲティ、ヤニス・クセナキスなど異なる流派の作曲家も参加し、ケージの偶然性などがヨーロッパに伝えられた。その後、ダルムシュタットは1950年代ほどの影響力は持たなくなったものの、後年においてもヘルムート・ラッヘンマンやブライアン・ファーニホウなど、シュトゥットガルト音楽大学やフライブルク音楽大学を中心とした次世代の作曲家らが講師陣をつとめ、1980年代の音楽シーンを新たに牽引した。 ドイツでは、ダルムシュタットの他にドナウエッシンゲン音楽祭も重要な現代音楽の発信地として挙げられる。歴史はこちらの方が古く、組織は別だが、取り上げられる作曲家の傾向はほぼダルムシュタットと共通性がある。ドナウエッシンゲンを主催しているのは南西ドイツ放送(SWR)で、放送(海外放送局への録音配布も含む)や録音メディアの販売により、その活動は諸外国にもよく知られている。 ドイツではダルムシュタットやドナウエッシンゲンに限らず、この他にもドイツ全国に30余りある州立音楽大学、150近い管弦楽団、100近いオペラハウス、10以上の独立した公共放送による13の放送交響楽団と管弦楽団、多数の音楽祭などが、作曲家への委嘱などを通して常に優れた作品を生み出しつづけている。 その一方、東西分断時代に共産圏であった旧東ドイツは、旧西ドイツとはまったく異なる作曲活動を余儀なくされた。ドレスデンで活躍した作曲家・指揮者のヘルベルト・ケーゲルは東西ドイツ統一後に自殺した。その原因については、社会主義の終焉に絶望したためという説もあるが、真相は不明である。しかしこの地域にもパウル=ハインツ・ディートリッヒ
西欧・南欧
ドイツ
1970年代生まれの作曲家には、ペーター・ガーンとズベン・インゴ・コッホがおり、両者ともに日本に公的に紹介されている。1980年代生まれの作曲家にはヨハネス・クライドラー、ベンヤミン・ショイアー、コンスタンチン・フォイアー、トビアス・クリッヒなどがいる。 ドイツ現代音楽の潮流は、広義としてはドイツおよびオーストリア、スイスのドイツ語圏を含むと考えてよい。 スイス出身の作曲家としては、クラウス・フーバーや、オーボエ奏者としても世界的にその名を知られるハインツ・ホリガーらがいる。彼らはドイツのフライブルクで教職を勤め、フーバーはブライアン・ファーニホウや細川俊夫を教えた。また、バーゼル音楽大学のユルグ・ヴィッテンバッハ
ドイツ語圏
ウィーンでは、戦前の新ウィーン楽派の功績がまず挙げられるが、より現在に近いところでは、ポーランド人作曲家のローマン・ハウベンシュトック=ラマティが、ウィーン音楽院で多くの作曲家を育てた。なかでも、その弟子でスイス出身のベアート・フラーは、優秀な現代音楽アンサンブル、クラングフォラム・ウィーンを結成し、グラーツ音楽大学で教え、ウィーンを中心に新たな潮流を生み出している。同じくスイス出身の、クラウス・フーバーの弟子のミカエル・ジャレルも、現在ウィーン音楽大学と故郷のフランス語圏のジュネーブ音楽院で教鞭をとっている。また、指揮者のクラウディオ・アバドが提唱した現代音楽祭「ウィーン・モデルン」もよく知られている。オーストリアの公共放送はORF一局のみだが、ウィーン放送交響楽団を初めとして、ウィーンの放送局の中で常に完全無料の公開初演を行い、「オーストリア・1(アインツ)」のFM放送で一年中放送されている。
ザルツブルクでは、ポーランド出身のボグスワフ・シェッフェルが、モーツァルテウム音楽大学で電子音楽のゲルハルト・ヴィンクラーや、ザルツブルク・シンフォニエッタ・ダ・カメラの主宰者・指揮者で自ら作曲コンクールも企画しているペーター・ヴィーゼン=アウアーなどを教えた。シェッフェルの退官後はシュヴァツで夏期講習を開催し、多くの弟子を輩出している。ザルツブルク音楽祭は近年ジェラルド・モルティエ以降、現代音楽が盛んになった。 フランスでは、戦後よりオリヴィエ・メシアンがパリ音楽院で教鞭をとり、多くの作曲家を育成した。その弟子の一人で、戦後現代音楽の最重要作曲家の一人であるピエール・ブーレーズは、現代音楽アンサンブル、ドメーヌ・ミュジカルを組織し、演奏会などを通じて前衛音楽を多数紹介した。この活動は後に、IRCAM所属のアンサンブル・アンテルコンタンポランによって引き継がれている。「メシアン門下になることは少数派につくことを意味した」というブーレーズの発言に見られるように、この活動は決して平坦な道のりではなかったようだ。メシアンがパリ音楽院の作曲科の教授に迎えられたのは1960年であり、それまでは理論系の別の科を渡り歩いていた。 現在では、ブーレーズが初代の所長を務めた電子音響音楽研究施設IRCAM(イルカム、1976年より)を中心として、ジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユ(現ザルツブルク・モーツァルテウム大学教授)をはじめとするスペクトル楽派と呼ばれる作曲家が、電子音響あるいは音響学的な分析を応用した作曲活動を行っている。スペクトル楽派の影響はフランスという一つの国籍に縛られず、むしろIRCAMで学んだ多国籍の作曲家に影響を与えている(詳しくはスペクトル楽派の項を参照)。
フランス
ほかに、これらの流れに与しない存在としてパスカル・デュサパンが活躍している。デュサパン以降の若手では、レジス・カンポのように、グリゼーに師事しながら全く別の語法を探る作曲家もいる。マルク・モネも、エレクトロニクスを駆使したユーモア色の強い作風で知られている。
その一方で、国外への影響力は薄いものの、クロード・バリフ、アラン・バンキャール、ジャック・ルノ、オリヴィエ・グレフ、ブリス・ポゼ、ニコラ・バクリ、ティエリー・ランチノらのように、エクリチュール(書式)の完成度の格調と音色美を誇る「フランスの古き良き伝統」を継承する流派も今日まで続いている。