珍島郡
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全羅南道 珍島郡珍島海割れと金湖島。遠くに海南郡の山々が見える
位置

各種表記
ハングル:???
漢字:珍島郡
日本語読み仮名:ちんとうぐん
片仮名転写:チンド=グン
ローマ字転写 (RR):Jindo-gun
統計(2023年
面積:440.1 km2
総人口:28,979[1]
男子人口:14,453 人
女子人口:14,526 人
人口密度:65.85 人/km2
世帯数:16,548 世帯
行政
国: 大韓民国
上位自治体:全羅南道
下位行政区画:1邑6面
行政区域分類コード:?
珍島郡の木:ホオノキ
珍島郡の花:ツバキ
珍島郡の鳥:ハクチョウ
自治体公式サイト: ⇒珍島郡
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珍島郡庁

珍島郡(チンドぐん)は、大韓民国全羅南道西南部の郡。珍島とその周辺の島々から構成される[2]
地理

珍島本島(体島)を含め、郡域には計230(有人島45、無人島185)の島がある。

本島の西南約10kmには上鳥島下鳥島があり、さらにその近辺に観梅島大馬島東巨次島西巨次島孟骨島屏風島独巨島をはじめ小さな島々が散在している。上下鳥島一帯の海域は多島海海上国立公園に指定されている。本島の西北約5kmにある加沙島(5.85km2)は400名近くが住む大きな島で、漁業が営まれている。

郡域の東には海を隔てて海南郡があり、珍島の東北端で本土と最も近接する部分が鳴梁海峡である。ここに珍島大橋がかけられ、郡域と本土との唯一の陸上交通路となっている。北方には新安郡所属の島々が広がっている。
略歴

1980年には8万3300人が住んでいたが、30年を経て人口は半分以下に減少している。とくに1980年代後半の5年間では人口の3分の1(約1万8000人)の流出が見られた。現在もこの減少傾向は止まっていない。
年表金骨山から眺める珍島本島、2013年4月

百済時代 -「因珍島郡」と称された。

新羅時代 - 武珍州に属し珍島県が置かれた。

940年 - 高麗王朝により珍島郡が設置される。

1270年 - 三別抄が珍島に本拠を置き、モンゴルに抗戦。

1350年 - 倭寇の侵入を受け、郡民は本土に避難。高麗王朝は島を放棄。

1437年 - 朝鮮王朝が珍島郡を再設置。

1597年 - 珍島と本土との間の鳴梁海峡で鳴梁海戦が行われる。

1895年 - 地方制度改革により、本土の一部を含む17面を管轄する郡となる。

1906年 - 本土の命山面が霊岩郡に編入、三寸面が海南郡に編入。

1914年4月1日 - 郡面併合により、珍島郡の一部(都草面)が務安郡に編入。珍島郡に以下の面が成立(7面)。

府内面・古郡面・郡内面・義新面・臨淮面・智山面・鳥島面


時期不明 - 府内面が珍島面に改称(7面)。

1963年1月1日 - 鳥島面の一部(馬津島里)が務安郡長山面に編入(7面)。

1973年1月25日 - 木浦から珍島へ向かっていた連絡船が知山面深東里の沖合で暗礁にぶつかり沈没。死者行方不明62人[3]

1973年7月1日 - 郡内面の一部が珍島面に編入(7面)。

1979年5月1日 - 珍島面が珍島邑に昇格(1邑6面)。

1983年2月15日(1邑6面)

鳥島面の一部(加沙島里の高沙島・平沙島・松島)が新安郡新衣面に編入。

鳥島面の一部(晩才島里)が新安郡黒山面に編入。


1984年10月 - 珍島大橋開通。

1987年1月1日 - 臨淮面の一部が珍島邑に編入(1邑6面)。

1990年 - 新安郡長山面の一部(小楮島・斫刀島・松島・骨島・戯魚島)が珍島邑に編入(1邑6面)。

2014年4月16日 - 鳥島面観梅島沖でセウォル号沈没事故が発生。

2021年7月5日 - 集中豪雨により住宅など49棟が浸水、農地5149ヘクタールが浸水する被害[4]

行政行政区域図

郡庁舎は珍島中央部の珍島邑城内里に所在する。郡守は朴連洙(パク・ヨンス/???)。

1邑6面がある。珍島本島にはこのうち1邑5面が置かれており、下鳥島に面事務所がある鳥島面は加沙島など離島部を管轄する。

邑・面法定里
珍島邑校洞里、南洞里、東外里、山月里、城内里、寿域里、水流里、双井里、念丈里、浦山里、海倉里
古郡面古城里、金界里、内山里、道平里、碧波里、石?里、五柳里、五山里、遠浦里、芝幕里、香洞里
郡内面羅里、鹿津里、徳柄里、屯田里、粉土里、細登里、松山里、龍蔵里、月加里、亭子里


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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