王韜
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この項目では、清末の改革派思想家について説明しています。中華民国の天津市長については「王韜 (民国)」をご覧ください。
王韜

王 韜(おう とう、Wang Tao、1828年11月10日 - 1897年5月24日)は、末の改革派思想家、政治評論家、ジャーナリスト。字は紫詮、蘭卿。号は天南遁叟、甫里逸民、淞北逸民、欧西富公、?園老民、?華館主、玉鮑生、尊聞閣王など。「長毛状元」とも呼ばれた。
生涯『循環日報』『扶桑遊記』

蘇州府長洲県甫里村(現在の?直鎮甫里)に生まれる。父親は私塾の教師で、父親から四書五経を教わる。1843年崑山で県試を受けて合格し秀才となった。しかし1846年南京での郷試に失敗した。

1847年上海に旅してロンドン伝道会の宣教師ウォルター・ヘンリー・メドハースト(麦都思)の開いた墨海書館を訪れた。そこで彼は活字印刷機に触れて大いに興味を抱いた。墨海書館ではミルン(美魏茶)、ミュアーヘッド(慕維廉)、エドキンズ(艾約瑟)ら宣教師の知遇を得、翌年に墨海書館のスタッフとして招かれた。王韜と宣教師アレクサンダー・ワイリー(英語版)(偉烈亜力)は西洋の学問の紹介を行い、『華英通商事略』『重学浅説』『光学図説』『西国天学源流』などの本を翻訳出版した。1854年、王韜は洗礼を受けキリスト教徒となった。

1860年李秀成率いる太平天国軍が蘇州・常州を陥落させて上海に迫ると、王韜は黄?という変名で太平天国に策を上書した(「長毛状元」のあだ名はここに由来する)。後に李鴻章の清軍が上海を占拠すると黄?の書簡は清軍の手に渡った。李鴻章は黄?が王韜であると知り逮捕を命じた。当時の墨海書館長のサー・ウォルター・ヘンリー・メドハースト(麦華陀、ウォルター・ヘンリー・メドハーストの子)はイギリスの駐上海領事であり、王韜は上海領事館に逃れた。1862年10月、上海領事館員に守られてジャーディン・マセソンの船に乗り込み香港に亡命した。香港ではメドハーストの友人で英華書院院長のジェームズ・レッグ(理雅各)から『十三経』の英訳への協力を依頼された。レッグは王韜の協力で『書経』と『竹書紀年』を翻訳している。

1867年、王韜は故郷のスコットランドに帰ったレッグから、ヨーロッパ歴訪の誘いと経典の翻訳の続きへの助力を求める手紙を受け取ると、11月から船旅に出た。シンガポールペナン島セイロン島アデンカイロを経て地中海に出て、メッシーナ経由でフランスマルセイユに到着した。マルセイユからはリヨン経由でパリに入った。パリではルーヴル美術館など名所を見学し、パリ大学の中国学者スタニスラス・エニャン・ジュリアンを訪ねている。その後カレーからドーバー海峡を渡ってロンドンに入った。ロンドンでは大英博物館セント・ポール大聖堂の名所を見学した。その後請われてオックスフォード大学で講演を行った。ロンドンを離れた後はスコットランド南部のクラックマンナンシャーに居を定め、レッグの翻訳作業に協力した。その間、エディンバラを訪れエディンバラ大学を参観し、アバディーングラスゴーダンディーを旅行している。1870年、レッグと王韜は『詩経』・『易経』・『礼記』の翻訳を完成させた。さらにスコットランド旅行中に、中国古代の日食の記録を西洋の天文学を利用して研究し『春秋日食弁正』『春秋朔閏至日考』などの著作を残している。

1870年、香港に戻り『法国志略』『普法戦紀』の二書を編訳した。


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