王 華(おう か、太元10年(385年)- 元嘉4年5月10日[1](427年6月19日))は、東晋から南朝宋にかけての官僚。字は子陵。本貫は琅邪郡臨沂県。 東晋の太子中庶子・司徒左長史の王?
経歴
父の消息が不明なまま、布の着物と菜食の生活で、人と交遊することもなく成長した。義熙年間、劉裕は王華を任用したいと考えて、王?の喪問を発し、王華に正式に服喪させた。喪が明けると、劉裕が北伐して鎮西将軍・北徐州刺史を兼ねたため、王華は召し出されて北徐州主簿となり、そのまま鎮西主簿に転じ、治中従事史となった。義熙13年(417年)、彭城公劉義隆が西中郎将・荊州刺史として江陵に駐屯すると、王華はその下で西中郎主簿となり、諮議参軍に転じ、録事を兼ねた。
永初元年(420年)、劉義隆が宜都王となり、鎮西将軍となると、王華は従って鎮西府に転じた。劉義隆は政治の事務を司馬の張邵に任せていた。張邵は傲慢な性格で、その鹵簿は主君と見まがうばかりに飾り立てていた。張邵は白服での登城を王華に糾弾され、罪に問われて召還された。王華が代わって鎮西司馬・南郡太守となり、鎮西府と荊州の事務を代行した。景平2年(424年)、徐羨之・傅亮・謝晦らが少帝を廃位して、劉義隆を帝位に迎えようとした。劉義隆は少帝が殺害されたことから、徐羨之らを疑って東下しようとしなかった。王華は3人の勢力均衡を利用して権勢を固めるよう勧めた。劉義隆は王華の提案に従い、王華に荊州の留守を任せて、自身は建康に入った。劉義隆(文帝)が即位すると、王華は侍中となり、驍騎将軍を兼ねた。まもなく侍中のまま右衛将軍に転じた。
元嘉3年(426年)1月に徐羨之・傅亮が処断され、2月に謝晦の乱が平定された。6月、王華は侍中のまま中護軍に転じた。
元嘉4年(427年)5月、死去した。享年は43。散騎常侍・衛将軍の位を追贈された。元嘉9年(432年)、徐羨之を処断した功績により、新建県侯に追封された。諡は宣侯といった。
子の王嗣が後を嗣ぎ、左衛将軍となった。
脚注^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉四年五月壬午条による。
^ 『晋書』巻10, 安帝紀より
伝記資料
『宋書』巻63 列伝第23
『南史』巻23 列伝第13