王莽
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王猛」、「王蒙」、あるいは「王濛」とは別人です。

王莽

皇帝

王朝
在位期間8年 - 23年
都城常安
姓・諱王莽
字巨君
生年初元4年(前45年
没年地皇4年9月3日の暦10月3日)
23年10月6日
王曼
母功顕君
年号始建国9年 - 13年
天鳳14年 - 19年
地皇20年 - 23年
王莽が発行した貨幣の一種。小刀を模した形状であり、「一刀平五千」の名で五銖銭5000枚分の名目価値とされた。

王 莽(おう もう、前45年 - 23年)は、新朝皇帝は巨君。『漢書』などに記されている「.mw-parser-output .cjkext{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ 簡体中文 W3","ヒラギノ角ゴ 簡体中文","Hiragino Sans GB W3","Hiragino Sans GB","STHeiti SC","STHeitiSC-Medium","Microsoft YaHei","Droid Sans Fallback","Han-Nom Gothic","SimSun-ExtB","BabelStone Han","Nom Na Tong","WenQuanYi Zen Hei","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字","YOzFont","DFSongStd","HAN NOM A","Sun-ExtA","Code2000","HAN NOM B","Sun-ExtB","花園明朝 A Regular",HanaMinAX,"花園明朝 B Regular","花園明朝 C Regular","花園明朝 C",HanaMinBX,"花園明朝A","花園明朝B",HanaMinA,HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-A{font-family:"源ノ角ゴシック","Noto Sans CJK JP","STHeiti SC","STHeitiSC-Medium","Microsoft YaHei","BabelStone Han","Droid Sans Fallback","Adobe Heiti Std R","Adobe Heiti Std","Han-Nom Gothic","DFSongStd","WenQuanYi Zen Hei","HAN NOM A","Sun-ExtA","Code2000","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"FZKaiS-Extended","CJK統合漢字拡張A","花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-B{font-family:"SimSun-ExtB","HAN NOM B","Sun-ExtB","BabelStone Han","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"FZKaiS-Extended(SIP)","CJK統合漢字拡張B","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-C{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","CJK統合漢字拡張C",gw061889,"Sun-ExtB","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"和田研中丸ゴシック2004絵文字",WadaLabChuMaruGo2004Emoji,"和田研細丸ゴシック2004絵文字",WadaLabMaruGo2004Emoji,"BabelStone Han","FZKaiS-Extended(SIP)","UKai-ExtC","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-D{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","BabelStone Han","UCS-ALL-EXTD",gw936381,"花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"Sun-ExtB","FZKaiS-Extended(SIP)","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-E{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","UCS-ALL-EXTE",gw1289725,"花園明朝B","HanaMinB","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-F{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","UCS-ALL-EXTF","花園明朝B","HanaMinB","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-G{font-family:"UCS-ALL-EXTF","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-stroke{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字","BabelStone Han","MingLiU","MingLiU_HKSCS",Code2000,"Sun-ExtA","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-radical{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ 簡体中文 W3","ヒラギノ角ゴ 簡体中文","Hiragino Sans GB W3","Hiragino Sans GB","BabelStone Han","Nom Na Tong","HAN NOM A","Sun-ExtA","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"YOzFont","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字",Code2000,"花園明朝A","HanaMinA","FZKaiS-Extended"}.mw-parser-output .cjkext-ci{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","Droid Sans Fallback","Arial Unicode MS","BabelStone Han","DFSongStd","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,Code2000,"CJK互換漢字","花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-cis{font-family:"HAN NOM B","CJK互換漢字補助","Sun-ExtB","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-20bb7{font-family:"源真ゴシック Regular","源ノ角ゴシック Normal","源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ Pro W3","ヒラギノ角ゴ Pro","Hiragino Kaku Gothic Pro","メイリオ","Meiryo UI","A-OTF 新ゴ Pr5 R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","小塚ゴシック Pro M","VL Pゴシック","Migu 1P","IPAmj明朝","BabelStone Han","HAN NOM B","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004絵文字","YOzFont","Sun-ExtB","花園明朝 B Regular",HanaMinBX}莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。

前漢元帝皇后王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟にあたる。王曼の次男。子は王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡ら。娘は平帝皇后王氏・王曄・王捷ら。孫(王宇の子)は王千・王寿・王吉・王宗・王世・王利。孫娘(王宇の娘)は王妨(王宗の姉。衛将軍に任じられた王興の妻)・王氏(下の名前は不明。定安公に封じられた後の孺子嬰の妻)。兄は王永。甥(王永の子)は王光。正妻は丞相王?の孫の宜春侯王咸の娘。

漢の外戚となった王政君の一族である王氏の一員として生まれ、王政君や伯父の王鳳の引き立てで立身し、漢の成帝によって、大司馬に任じられた。成帝の死後、哀帝時代には失脚したが、哀帝の死後は、平帝時代に太皇太后となった王政君により、漢の政治の実権を握った。

儒教の新興による名声の高まりと、天命と称する符命も利用して、平帝の死後、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて皇帝に即位した。

その後、儒教の経書に基づく政治を行うが、名分論をきっかけとした匈奴との戦争や実務と合わない政治などを行い、政治の混乱をまねいた。そのため、内乱により、王莽は殺害され、新はわずか15年で滅亡し、漢が再興し、後漢王朝が建国された。

史書には人格や政治能力に大きな問題がある人物として記され、後世から「簒奪者」として、評価され、強い批判を受けた。

しかし、近年では、その政策は社会主義的な側面があったことや、後の中国の王朝政治の骨格となった儒教の国教化・祭祀制度・礼楽制度・官僚制禅譲制度・学校制度などにおいて、大きな影響を与えた改革を行ったことが評価されている。
生涯

魏郡元城県委粟里(現在の河北省邯鄲市大名県の東)の出身。

皇后に立てられた王政君の縁故で伯父・叔父達が列侯に封ぜられ高官として裕福な暮らしを送る中で、父の王曼と兄の王永が早世したために王莽の一家のみが侯に封ぜられず貧しかった。王莽は恭倹に身を持し、沛郡の陳参に師事して『礼経』を受け、身を勤め学を広め、儒生並の服装をし、母と兄嫁に仕えた。また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育し、それに王莽の妻が不平を述べたと伝えられる。

壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けたため、王鳳は死に臨んで成帝と王政君に王莽を託す。これ以後、王商王根の推挙と皇太后となった王政君の後ろ盾を背景に王莽は順調に出世する。王政君の姉の子の淳于長を失脚させ、大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどになり、永始元年(前16年)には新都侯に封ぜられる[1]綏和2年(前7年)に哀帝が即位すると哀帝の祖母の傅太后・母の丁姫との対立により大司馬を罷免され、2年後には封国の新都へ追いやられたが、国政復帰の嘆願が多く出され、元寿元年(前2年)の日食を契機に長安に呼び戻された。

元寿2年(前1年)に哀帝が崩じると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、中山王劉?(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。暫くして古文経学の大家だった劉?を始めとした儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥に基づいた政策を実施。その一方で民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺に追い込んでいる。娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡・安漢公となった後、元始5年12月16日(6年2月3日)には14歳になった平帝が死去した。平帝の死因については王莽による毒殺とする記録もあり(『漢書』平帝紀注「漢注云帝春秋益壮、以母衛太后故怨不悦。莽自知益疏、簒殺之謀由是生,因到臘日上椒酒、置薬酒中。故?義移書云「莽鴆弑孝平皇帝」」や?方進伝所引の反乱者?義の檄文「移檄郡国、言莽鴆殺孝平皇帝、矯摂尊號、今天子已立、共行天罰」では、王莽の毒殺としている。)、また漢書本文にはそのような記述はなく、平帝は幼少時から病弱であったため、病死である可能性もある。後継として僅か2歳の遠縁の広戚侯劉顕の子の劉嬰を立てるも皇帝ではなく皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇帝の業務を代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱いとし、居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。

更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し[2]、また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪(身勝手な禅譲)に相当する。

『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと伝えられている[3]


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