.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
British Academyとされる「イギリス学士院」あるいは王立技芸協会(RSA)とされる「ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ」とは異なります。
王立学会
The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge
標語Nullius in verba
(Take nobody's word for it)
設立1660年11月
本部英国ロンドン
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度30分21.53秒 西経0度07分56.86秒 / 北緯51.5059806度 西経0.1324611度 / 51.5059806; -0.1324611
王立学会(おうりつがっかい、Royal Society)は、1660年にロンドンで作られた民間の科学に関する団体[1]である「自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会」(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)のことである。他の日本語訳として王立協会(おうりつきょうかい)、王認学会(おうにんがっかい)[注 1]がある。結成以来現在まで続いており、最古の学会である[5]。ロイヤルという名前は1662年にチャールズ2世の勅許を得て法人格を得たためつけられたが、国王または女王はあくまで守護者(パトロン)と言う位置づけで、フランスの王立パリ科学アカデミーと違って国庫の補助はなく、1850年に政府の補助金を得るまで会員の会費によって運営されていた[1]。王族フェロー、名誉フェロー、外国人フェロー(日本人を含む)を含めて2016年の時点で約1600人のフェローがおり、会員は「王立学会フェロー」を名乗ることが許可される。 1645年頃、イングランド内戦の影響によりオックスフォード大学から研究の場をロンドンに移し、実験哲学に関する活動を始めた数学者ジョン・ウォリスら10名程度の討論グループが王立学会の起源となった[9]。正式名称は The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge(自然知識を促進するためのロンドン王立学会である[9])。 この会は民間科学団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院(アカデミー)としてイギリスにおける科学者の団体の頂点にあたる。また、科学審議会
概要
17世紀以降の著名な科学者の多くは、創立メンバーまたは会員になっている。王立学会フェローにはFRS(Fellow of the Royal Society)という称号が付く。最初期の主要な会員には、ロバート・ボイル、J・イーブリン、ロバート・フック、ウィリアム・ペティ、ジョン・ウォリス、ジョン・ウィルキンズ、トーマス・ウィリス、クリストファー・レンなどがいる。万有引力の法則の発見や光学の研究で近代科学に多大な影響を与えたアイザック・ニュートンは、その業績が認められ後に会長になった。
歴史
草創期 ロバート・ボイルの空気ポンプ
イギリスでは1641年に清教徒革命が起こり、国王が処刑された。1645年頃、ロンドンに実験哲学好学者たちの科学サークルができていた[12]。この会は礼拝堂牧師ジョン・ウィルキンス(1614-1672)を中心として、グレシャム卿の屋敷に会合場所を持っていた[12]。そして週1回集まって何か実験を行っていた[12]。
一方オックスフォードでは、オックスフォード実験哲学サークルができていた[12]。1648年にオックスフォードのウォダム学寮の学長になったウィルキンズは1648年にロンドンの仲間を呼んだりした[12]。ボイルの法則で有名なロバート・ボイル(1627-1691)も1658年にオックスフォードに移ってきた[12]。1646年のボイルの手紙には「インビジブル・カレッジ」[注 3](見えざる大学、人間関係でつながった学派のようなもの)という記述があり、メンバーの私的なつながりができていた[12]。
1653年にオックスフォード大学へ入ったロバート・フック(1653-1703)は、1655年に医者のトマス・ウィリアムス(1622-1675)の科学研究の助手となり、オックスフォードの科学サークルにも顔を出すようになった。フックはボイルの助手として雇われて空気ポンプなどを作ってボイルの研究を助けた[13]。
これらの先行する科学サークルが統合して、王の勅許状を得て法人格を得て、より活動しやすくすることを狙って発足したのがロイヤル・ソサエティである[12]。モットーは"Nullius in verba"(ラテン語で「言葉によらず」)。これは古代ローマの詩人であるホラティウスの言葉からの引用で、原文は"Nullius addictus judicare in verba magistri"(「権威者の伝聞に基づいて(法廷で)証言しない」)。つまり、権威に頼らず証拠(実験・観測)をもって事実を確定していくという近代自然科学の客観性を強調するものである[注 4]。
1660年11月28日(旧暦)の会合で、「自然学的、数学的な実験学問を推進するためにカレッジを設立する」提案がなされ、実験哲学の育成を目的としたアカデミー設立計画が動き出した。1662年にチャールズ2世から1回目の勅許状(翌年改訂され差し替えられた)が与えられ、「自然知識を促進するためのロンドン王立学会」として正式に発足した。発足当初の事務局長はヘンリー・オルデンバーグ、会員数は119名であり、グレシャム・カレッジ(英語版)に間借りする形で活動した[9]。特許法人となった王立学会は国教会の許可を経ずに役員の判断で出版活動ができるようになり、1665年には定期刊行物『フィロソフィカル・トランザクションズ』が発刊され、ヨーロッパを代表する学術雑誌となった[9]。
初期の活動 フックが学会の会合で見せた顕微鏡(『ミクログラフィア』にある版画)
第1回の会合に集まったのは12名で、毎週水曜日午後3時に会合を持つことになった。そして会員数を55名とすることになった[12]。ロイヤルを冠していても同時代のフランスの「パリ科学アカデミー」や、フィレンツェの「フィレンツェ実験学会」が国立機関であったのと違い、自発的な民間の知識の増大と普及が目的の団体であって、会員の自腹の会費で運営された[12]。