王浚
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王舜」、「王峻」、あるいは「王駿」とは別人です。

王 浚(おう しゅん、嘉平4年(252年) - 建興2年3月4日[1]314年4月4日))は、中国西晋末から五胡十六国時代将軍政治家は彭祖。并州太原郡晋陽県(現在の山西省太原市晋源区)の人。父は西晋の驃騎将軍王沈。母は趙氏。妻は[2] の姉妹。また、華芳(華?の子の華炳の孫娘で、華衍の娘)を妻としたという墓誌も伝わっており、墓誌によると先に文粲(文猗の娘)・衛e(衛?の弟の衛寔の娘)と結婚したが死別したという[3]幽州で地盤を確立し、前趙石勒を阻んだが、晩年には晋朝を蔑ろにして自ら皇帝即位を目論んだ。
生涯
幽州に出鎮

西晋の重臣王沈の子として生まれたが、母の趙氏は出自が賤しかったので、当初は私生児として扱われて認知されなかった。泰始2年(266年)、王沈がこの世を去ると、彼に子がいなかったことから親族により後継ぎに立てられた。こうして父の爵位を継いで博陵公に封じられ、?馬都尉に任じられた。太康元年(280年)、封国である博陵に赴任した。太康3年(282年)、洛陽に入朝して員外散騎侍郎に任じられた。元康元年(291年)、員外常侍に転任し、やがて越騎校尉・右軍将軍に移った。後に河間郡太守にも任じられたが、郡公は二千石の官位に就いてはならないという規則があったので、東中郎将に移って許昌に出鎮した。

元康9年(299年)12月、恵帝の皇后賈南風らの画策により皇太子司馬?は許昌の宮殿に幽閉され、永康元年(300年)3月には賈南風の内意を受けた宦官の孫慮により殴殺された。この時、王浚は賈南風の謀略に関与し、殺害の手助けをしたという。その後、寧北将軍・青州刺史に任じられたが、しばらくして持節・都督幽州諸軍事・寧朔将軍に転任となり、幽州の薊城に出鎮した。

永康2年(301年)1月、趙王司馬倫が恵帝を廃して位を簒奪すると、3月に三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬?)が司馬倫討伐を掲げて決起した。この時、王浚は兵を擁したままどちらにも与せず中立の立場を保ち、三王からの檄文も遮って幽州の将兵が義兵に参加しないようにした。司馬穎はこれを大いに不満に思い、王浚の下へ討伐軍を派遣しようと考えたが、幽州にまで出兵する余裕が無かった。4月、司馬倫が殺害されると、王浚は安北将軍に昇進した。王浚は自身の安全を考慮して非漢民族と修好を深めることにし、娘の一人を段部の大人段務勿塵に、もう一人を宇文部の宗族宇文素延[4] にそれぞれ嫁がせ、幽州での地盤確立に努めた。
司馬穎・司馬?を鎮圧

太安2年(303年)7月より、司馬?・司馬穎は結託して当時朝廷の第一人者であった長沙王司馬乂を排斥せんとしており、永安元年(304年)1月には内戦の末に洛陽を陥落させて恵帝の身柄を奪い、司馬乂を殺害した。これを聞いた王浚は司馬穎らの横暴に大いに憤り、これを討伐しようと考えるようになった。司馬穎もまた司馬倫討伐の一件で王浚を恨んでおり、同年7月には腹心の右司馬和演を幽州刺史に任じ、彼に密かに命を下して王浚の暗殺を命じた。しかし和演の協力者であった烏桓単于の審登は、和演を裏切ってこの計画を王浚にばらしてしまった。このため王浚は和演を捕えて斬殺し、これにより幽州全域を自ら領有する事となった。さらに武具・兵器を整備すると、段部の大人段務勿塵・烏桓の大人羯朱・東?公司馬騰と共に挙兵し、胡人漢人合わせて2万人を率いて司馬穎の本拠地である?へ侵攻した。

司馬穎は北中郎将王斌と石超に迎撃を命じたが、王浚は司馬騰と軍を合わせて王斌を撃ち、これを大破した。さらに平棘へ侵攻し、主簿祁弘を前鋒として石超を撃ち破ると、勝ちに乗じて進撃を続けた。司馬穎は大いに恐れて?を放棄し、恵帝を伴って洛陽へ遁走した。王浚は?に入城すると、羯朱に司馬穎追撃を命じて朝歌まで進軍させたが、間に合わなかった。この時、配下の将兵は?城内で大々的に略奪を行い、多数の民衆が命を落としたという。また、薊城へ帰還する際、鮮卑の兵は婦女を多数誘拐したが、王浚は婦女を匿う者は切り捨てると宣言したので、実に八千人余りが殺されて易水に沈められた。その後、幽州に帰還すると、この業績によりその声望はますます盛んとなった。

11月、司馬?配下の張方は恵帝を無理やり洛陽から連れ出し、司馬?の本拠地である長安へ連れ去った。永興2年(305年)7月、王浚は范陽王司馬?・東平王司馬楙らと共に東海王司馬越を盟主に奉じ、恵帝奪還と司馬?打倒を掲げて挙兵した。12月、司馬?が司馬?一派の豫州刺史劉喬に敗れて河北に逃れてくると、王浚はこれに応じて騎兵八百を分け与え、司馬?はこれにより勢いを盛り返し劉喬の軍勢を散亡させた。さらに王浚は祁弘に烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略を援護させた。祁弘は討伐軍の先鋒として主体的な役割を果たし、司馬?の軍勢を尽く返り討ちにし、長安攻略と恵帝奪還を成し遂げた。だが、ここでも配下の鮮卑兵は略奪・暴行を行い、2万人余りの民衆が犠牲となったという。

光熙元年(306年)8月、王浚は功績により都督東夷河北諸軍事・驃騎大将軍・幽州刺史に任じられ、博陵に加えて燕国を封国として与えられた。内戦に敗北した司馬穎・司馬?は、いずれもその後暗殺され死亡した。永嘉元年(307年)1月、懐帝が即位すると、司空・領烏桓校尉に昇進した。王浚は上表して段務勿塵を遼西公に封じ、段部の傍系である大飄滑と弟の渇末別部大屠?らをみな親晋王に封じた。
石勒との闘い


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