王様と私_(ミュージカル)
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1956年の映画については「王様と私 (1956年の映画)」をご覧ください。

王様と私
The King and I
作曲リチャード・ロジャース
作詞オスカー・ハマースタイン2世
脚本オスカー・ハマースタイン2世
原作アンナとシャム王
by マーガレット・ランドン
上演

1951年、ブロードウェイ

1953年、ウエスト・エンド

1954年、全米ツアー

1973年、ウエスト・エンド再演

1977年、ブロードウェイ再演

1979年、ウエスト・エンド再演

1981年、全米ツアー

1985年、ブロードウェイ再演

1996年、ブロードウェイ再演

2000年、ウエスト・エンド再演

2004年、全米ツアー

2011年、全英ツアー

2015年、ブロードウェイ再演

2016年、全米ツアー

受賞

1952年、トニー賞 ミュージカル作品賞

1996年、トニー賞 再演ミュージカル作品賞

2015年、トニー賞 再演ミュージカル作品賞

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『王様と私』(おうさまとわたし、英語: The King and I)は、作曲家リチャード・ロジャース、劇作家オスカー・ハマースタイン2世によるチームであるロジャース&ハマースタイン5作目のミュージカル。1860年代初頭のシャム(現タイ王国)のラーマ4世の子供たちのガヴァネスであったアナ・リオノウンズ回顧録から派生した、1944年のマーガレット・ランドンによる小説『アンナとシャム王』を基にしている。シャム王が自国を進歩的にしたいと考え、イギリス人教師アンナを雇うところから始まる物語。最初は価値観の相違から対立していた王様とアンナだが、様々な経験を共にし、双方認めたくないながらも愛が生まれていく。1951年3月29日、ブロードウェイのセント・ジェイムズ劇場にて初演。3年近く上演され、当時ブロードウェイ・ミュージカル史上4番目のロングラン公演となり、その後も何度もツアー公演や再演が行われている。

1950年、劇場弁護士ファニー・ホルツマンは顧客の1人であるベテラン女優ガートルード・ローレンスのための役を探していた。ホルツマンはランドンの本が理想的であるとして、ロジャース&ハマースタインに連絡を取ったところ、当初難色を示していた彼らも結局ミュージカルの製作に同意した。2人は1946年に映画『アンナとシャム王』でシャム王役を演じたレックス・ハリソンが王様役に適していると考えたがハリソンは都合がつかず、最終的に若い俳優でテレビ・ディレクターのユル・ブリンナーに決まった。

作品はたちまちヒットし、トニー賞においてミュージカル作品賞ミュージカル主演女優賞(ローレンス)、ミュージカル助演男優賞(ブリンナー)を受賞した。開幕から1年半後、ローレンスは予期せず癌で亡くなり、その後アンナ役には複数の女優が配役され、計1,246回上演後閉幕した。ロンドン公演や全米ツアー公演もヒットして何度か映像化され、1956年、ブリンナーは映画『王様と私』でアカデミー賞を受賞した。再三にわたる再演においてブリンナーは王様役を演じ続けたが、1981年から4年間の全米ツアー公演が彼の健康をむしばみ、1985年のブロードウェイ公演開幕直後に亡くなった。

クリストファー・レンショウは1996年のブロードウェイ公演など主な再演を演出し、トニー賞において再演ミュージカル作品賞を受賞し、2000年のウエス ト・エンドでも演出を担当した。2015年のブロードウェイ再演でもトニー賞再演ミュージカル作品賞を受賞。英語圏ではプロアマ問わず頻繁に上演され続けている作品の一つである。
歴史的背景ラーマ4世(右奥)と妻(左奥)と子供たち。ラーマ4世の隣に後継者ラーマ5世がいる

1861年、シャムの国王ラーマ4世は大体57歳となった。人生の半分ほどをとして過ごし、学問に熱心であり、仏教の新たな作法や、腹違いの兄ラーマ3世に捧げるバンコクの寺院などを創立した。何十年にもわたる修行の間、ラーマ4世は禁欲的な生活や西洋の言語を習得した。1850年のラーマ3世没後、ラーマ4世が即位した。当時ヨーロッパの多くの国々が東南アジアを支配しようとし、アメリカの貿易会社はその恩恵を受けようとしていた。ラーマ4世はシャムを独立国として守り抜いたが、後継者など妻子の一部には西洋文化に慣れ親しませた[1]

1861年、ラーマ4世はシンガポールのエージェントのTan Kim Ching に子供たちのためのガヴァネスとしてイギリス人女性を探してくれるよう頼んだ。当時、シンガポールのイギリス人コミュニティは小規模で、すぐに植民地で小さな保育所を経営するアナ・リオノウンズ(1831年-1915年)に声がかかった[2]。リオノウンズはインド陸軍兵のアングロ・インディアンの娘で、ホテル管理人トーマス・オウエンズの未亡人であった。2年前にシンガポール入りしており、上流階級の将校の未亡人で、ウェールズ生まれのため肌色が濃いと語っていた。『王様と私』が執筆されるまで没後長年リオノウンズの身分詐称は明らかにされなかった[3]海軍の制服を着たラーマ4世とラーマ5世

王から正式な招待状が届き、リオノウンズは娘エイヴィスにイギリスの一流教育を受けさせるためイングランドの学校に進学させ、5歳の息子ルイスを伴いバンコクに向かった[2]。ラーマ4世は地元の宣教師に妻子を教育してもらおうとしたが、宣教師たちはこれを機会に改宗させようとしたため、宣教師でないイギリス人を探していたのである。当初リオノウンズは月額の給料としてシンガポール通貨で150ドルを要求した。ほかに、西洋の人々との繋がりを保つために宣教師たちのコミュニティ内または近くに住むことを要求した。ラーマ4世はこれに敏感に反応し、「ここにはもうキリスト教の教師は必要ない」との手紙を送った[4]。ラーマ4世とリオノウンズは月額の給料100ドル、宮殿近くに住むことで合意に達した。当時のバンコクの交通手段はボートであり、ラーマ4世は毎日の通勤は望んでいなかった[4]。リオノウンズとルイスは紹介された最初の家が居心地悪いとして一時的にクララホム首相邸に住み、その後宮殿から徒歩圏内のレンガの家に引っ越した[4]。バンコクの気候では木造の家屋は腐りやすいのである。

1867年、リオノウンズは6か月間の予定でイングランドに娘エイヴィスを訪れるためバンコクを離れ、ルイスをアイルランドの学校に行かせてエイヴィスをシャムに連れてくることになった[5]。しかし予期せぬ行程の遅れにより、1868年後期にラーマ4世が病死する頃にもまだリオノウンズはシャムに戻れずにいた。結局リオノウンズはシャムに戻らなかったが、かつての教え子で新たな王となったラーマ5世とその後も連絡を取り続けた[6][7]
製作

1950年、イギリス人女優ガートルード・ローレンスのビジネス・マネージャーで弁護士のファニー・ホルツマンはローレンスが次に出演する作品を探しており、マーガレット・ランドンのエージェントからリオノウンズの経験を基にしたフィクションで1944年のランドンの小説『アンナとシャム王』が送られてきた[8]。ロジャースの伝記作家マール・シークレストによると、ホルツマンはローレンスが落ち目になってきていることを心配していた[9]。51歳のローレンスは1943年に閉幕した『闇の貴婦人(英語版)』以降ミュージカル出演はなく、演劇のみに出演していた[10]。ホルツマンはローレンスに『アンナとシャム王』を基にしたミュージカルが最適だとして[8]、この小説の舞台化の権利を買い取った[11]


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