日本における王政復古(おうせいふっこ)は、明治維新により武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を指す語[2]。岩倉具視ら倒幕派公卿と、尾張藩、越前藩、土佐藩、安芸藩、薩摩藩の5藩による政変、革命であり、これに対し幕府体制派は戊辰戦争を展開した。
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令[注釈 1]」が発せられ[3][4]、江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言され、新政府が成立した[5]。
大政奉還後も朝廷の委任により当面庶政を担っていた幕府はこれによって廃絶を宣言されたが、同時に朝廷(摂関以下の公家衆の機構)もまた廃絶となり、「天下の公議」による政治を行うため、天皇の下で従来の朝廷の身分秩序を超えて公家・諸大名・諸藩士から登用する新政府が発足することとなった。しかし、そこから排除された徳川家・旧幕府勢力の実体は依然存在しており、慶喜らの新政府への参画を支持する勢力もあったことから、岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通ら徳川排除派が中心となって戊辰戦争へ突入していった。 王政復古による新体制の樹立までには、幕末開国以来の新たな世界情勢に対応して日本の近代化・国力養成を進めるための政治体制が構想・模索されてきた経緯がある。「王政復古」「尊王攘夷」とは、始皇帝以前の周王を最高位とする古典概念にもとづく。よって皇政復古と呼ばれない。西洋の絶對王政の名は明治維新まで日本に無かった。 江戸時代後期、国学の進展などにより知識人の間に尊皇思想が広がっていった。一方、幕府支配の正当性の根拠を大政委任論に求める見解も、江戸初期の禁中並公家諸法度(第1条)よりその萌芽は見られたが、幕政の建て直し(寛政の改革)を主導した老中・松平定信が朱子学を推奨したことで、浸透したとされる。いずれにしても正当性の源泉を天皇に認める点は共通しており、その権威は広く認識されるようになっていた。 幕末の黒船来航(1853年)以後、開国・通商をめぐって国論は二分する。二百年来の鎖国方針の大転換、それも西洋の軍事的脅威に屈した結果と受け取られたことで幕府の威信は急落し、幕府は沸騰する攘夷論を抑えて通商条約 当時、病弱な将軍・徳川家定の継嗣問題をめぐり、幕閣・諸大名の間に一橋派と南紀派の対立が生じた。老中・阿部正弘、島津斉彬(薩摩藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)、徳川斉昭(前水戸藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、山内容堂(土佐藩主)、松平春嶽(越前藩主)ら一橋派が、斉昭の子で御三卿一橋家当主の徳川慶喜擁立を図るのに対し、井伊直弼(彦根藩主)ら南紀派は、将軍・家定の従弟・徳川慶福(紀州藩主)を支持していた。
背景
開国と幕権の動揺