王忠
魏
都亭侯・軽車将軍
出生生年不詳
雍州扶風郡
?音Wang Zh?ng
主君曹操→曹丕→曹叡→曹芳
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王 忠(おう ちゅう、? - 242年)[1]は、中国後漢末期から三国時代の武将。司隷扶風郡の人。 若い頃は亭長をつとめていた。三輔が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。その後、衆を率いて武関に入り荊州へ向かうが、荊州州境には婁圭が割拠していた。婁圭はすでに建安元年(196年)、王忠と同様に関中から移動して来た張済を拒み戦死させている。王忠は婁圭に帰属することを望まず、これを攻撃し撃ち破った。その後千人余りの軍を率いて曹操に帰属し中郎将となった。 建安4年(199年)秋、劉備が徐州の下?で刺史車冑を殺害し曹操に叛逆した。王忠は曹操の命により劉岱とともに出撃したが、沛県(小沛)に拠る劉備を降すことはできなかった。その後は揚武将軍・軽車将軍を歴任し、都亭侯に封じられている。 建安18年(213年)、魏公への任命を受諾するよう曹操に促す『魏公國勧進奏』に王忠は名を連ねている。順位は夏侯惇の次、程cや王朗たちよりも上位の八番目に揚武将軍・都亭侯として王忠の名前がある。また、延康元年(220年)、曹丕の家臣団が曹丕に対し、後漢からの禅譲を受けるよう勧めた『魏公卿上尊号奏』にも、王忠は軽車将軍・都亭侯として名を連ねている。順位は曹洪・曹真・曹休・夏侯尚ら曹丕の親族や張?・徐晃・張遼といった功臣たちより上位の七番目である[2]。後述の逸話や、これらの表における王忠の名の順位は、王忠と曹操・曹丕親子との親しさ・近さを表している。 五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。 黄初5年(224年)、魏の皇帝となっていた曹丕(文帝)は友人の呉質のために、上将軍と特進以下の官吏をすべて呉質の宿舎に集め、酒宴を催した。曹丕の寵を鼻にかけた呉質は曹真が太っているのをからかい、酒の肴にしようとした。このとき曹真が激怒したにもかかわらず、さらに王忠は曹洪と共に呉質の悪乗りに便乗して曹真をからかい、曹真の怒りに油を注いだという(呉質伝が引く『呉質別伝』)。[3] 小説『三国志演義』でも史実と同様に、劉岱とともに劉備討伐に向かう。この時の曹操の意図は、袁紹を相手にしている間の時間稼ぎ程度であったとなっている。王忠は、関羽との戦いに敗れ捕えられてしまう。しかし劉備からは礼遇され、同じく捕えられた劉岱と共に、曹操への斡旋を依頼されている。帰還後、王忠と劉岱は曹操に敗戦の咎を問われ処刑されそうになる。しかし、孔融の取り成しで助命されている。 なお史実では、王忠らはあくまで勝利を得られなかった(原文「不克」)とあるのみで、劉備に捕虜とされたわけではない。
正史の事跡
逸話
物語中の事跡
脚注[脚注の使い方]^ 『開元占經』
^ 渡邉義浩 ⇒「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 2022-02-04閲覧
^ 『王粲伝』によれば、王忠は曹洪と共に呉質の無礼を難詰しており、『呉質別伝』の記述と逆になっている。
参考文献
『三国志』魏書1武帝紀 魏書6袁紹伝 魏書21付・呉質伝 蜀書2先主伝
『三国演義』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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