王 弥(おう び、? - 311年)は、中国五胡十六国時代の漢(後の前趙)の軍人。字は子固[1]。東?郡出身の漢人。祖父は魏で玄菟太守、西晋で汝南郡太守を務めた王?。弟の王璋
・従弟の王桑もまた漢に仕えた。西晋末年の反乱勢力の統領であり、その中でも特に大規模な勢力となって華北を荒らし回り、西晋の国力を大いに衰微させた。後に劉淵に帰順して漢の将軍となり、洛陽攻略などの大功を挙げた。最終的な官位は大将軍まで至ったが、鎮東大将軍石勒と対立して誅殺された。二千石(官職の給料の額。転じて郡太守などの高官のことを指す)の官僚を代々輩出する名門の家系に生まれた。
若くして洛陽に遊学した。後に漢王朝を興す事となる匈奴攣?部の劉淵とは非常に仲が良く、劉淵が唯一人本音で語り合える間柄だったという。後に王弥は洛陽から故郷の青州に帰る事となったが、その際には劉淵は九曲の川岸まで見送り、別れを惜しんだという。 永興3年(306年)3月、?県県令劉柏根が数万の兵を擁して東?郡?県で挙兵し、?公と自称した。王弥は下僕を引き連れて彼の傘下に入り、劉柏根から長史(参謀役)に任じられた。従弟の王桑もまた東中郎将に任じられた。劉柏根軍は臨?へ侵攻すると、都督青州諸軍事司馬略が差し向けた将軍劉暾を返り討ちにし、劉暾を洛陽へ、司馬略を聊城へ撤退させた。だが、その後安北将軍王浚が派遣した軍に敗北を喫してしまい、劉柏根は戦死した。 王弥は敗残兵をかき集めて海岸沿いへ逃れたが、苟純 永嘉元年(307年)2月、征東大将軍を自称して挙兵すると、青州・徐州一帯へ侵攻して郡太守を討ち取った。当時朝政を掌握していた太傅司馬越は公車令鞠羨
反乱軍の統領
劉柏根の乱に参画
華北を席巻
当時、旧友であった劉淵が西晋に反乱を起こして挙兵しており、漢(後の前趙)を建国していた。その為、王弥は同じく趙・魏の地で反乱を起こしていた劉霊と合流すると、共に劉淵へ使者を派遣して恭順の意を示した。劉淵は王弥からの使者と分かるとその到来を大いに喜び、同年12月王弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事に任じ、東?公に封じる旨を伝えた[3]。
永嘉2年(308年)3月、王弥は離散した兵を再び結集させて勢いを盛り返すと、苟晞と再び交戦して幾度も撃ち破った。さらには諸将を分けて青・徐・?・豫の四州の諸郡へ侵攻させ、泰山・魯・?・梁・陳・汝南・潁川・襄城など向かう所全てを攻め降し、太守・県令を多く殺害した。これにより王弥の兵力は数万を数えるようになり、朝廷の力ではもはや制御できない程となった。 4月、兵を進めて許昌へ侵攻してこれを占領すると、府庫を暴いて武具を略奪し、装備を揃えた。当時、太傅司馬越は?城に駐屯していたが、彼は王弥が洛陽へ侵攻して来る事を警戒し、司馬王斌に甲士5千を与えて洛陽の護衛を命じた。涼州刺史張軌(前涼の初代君主)もまた洛陽救援の為、督護北宮純に将兵を与えて洛陽へ派遣した。 5月、王弥は洛陽目掛けて再び出撃し、?轅関より洛陽盆地へ侵入すると、晋軍を伊北で撃ち破った。洛陽朝廷は大いに震え上がり、宮城の門は昼でさえ全て閉ざされたままとなった。数日して遂に王弥は洛陽城へ到達し、城南の津陽門に駐屯した。司徒王衍は王斌と共に出撃してこれを阻み、さらに北宮純が勇士百人余りを率いて王弥軍に突撃した。これにより王弥は大敗を喫し、建春門を焼いて東へ撤退したが、王衍は左衛将軍王乗に追撃を命じた。王弥軍は七里澗において追いつかれ、再び敗戦を喫した。 王弥は劉霊へ「晋兵はいまだ強く、このままでは身の置き所が無い。劉元海(劉淵)がかつて人質だった頃、我は彼と洛陽で交流があり、契りを交わし合っていた。今、(劉淵は)漢王を称しており、まさにこれに帰順しようと思うが、如何か」と問うと、劉霊はこれに同意した。そこで王弥は郎党や劉霊・王桑らと共に黄河を渡り、?轅関より劉淵の下へ亡命した。王弥の到来を聞いて劉淵は大いに喜び、侍中・御史大夫の者を遣わして道中まで出迎えさせると共に、書を送って「将軍(王弥)は不世の功(並ぶものがいない功績)と超時の徳(ずば抜けた徳行)を持っている。故にこのように歓迎されているのだ。将軍の到来を期望し、我は今将軍のために用意した館へ出向いている。座席を拭って礼器を洗い、将軍を敬待しようぞ」と伝えた。 その後、王弥は劉淵と接見を果たすと、彼に帝位に即くよう勧めた。これに劉淵は「我はかねてより将軍の事を竇周公(竇融)のように見做していたが、今はまさしく我が孔明(諸葛亮)・仲華(ケ禹)である。烈祖(劉備)も『我が将軍(諸葛亮)を得たのは、魚が水を得るが如しである』と言っていたな」と述べ、大いに喜んだ。そして、王弥を司隷校尉に任じて侍中・特進を加える旨を告げたが、王弥は固辞して受けなかった[4]。 これ以後、王弥は正式に漢の傘下に入り、その軍事行動に参画するようになった。 11月、龍驤大将軍劉曜・輔漢将軍石勒・平北将軍劉霊らと共に魏郡・汲郡・頓丘郡へ侵攻し、50余りの砦を陥落させると、民を徴発して皆兵士として組み込んだ。 永嘉3年(309年)4月、王弥は侍中・都督青徐?豫荊揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧に任じられ、楚王劉聡・前鋒都督石勒と共に壷関を攻めた。并州刺史劉?は護軍黄粛
第一次洛陽侵攻
劉淵に帰順
漢の将軍
?・壷関攻略は城を捨てて逃走した。懐帝は豫州刺史裴憲を白馬に駐屯させ、王弥の攻勢に備えさせた。
功績により東?公に封じられた。 8月、劉聡と共に1万騎を率いて洛陽へ侵攻し、龍驤大将軍劉曜・安北将軍趙固らが後詰となった。漢軍は東海王司馬越が派遣した平北将軍曹武
第二次・三次洛陽侵攻
10月、劉聡・劉曜・汝陰王劉景らと共に精鋭5万を率いて再び洛陽へ侵攻し、大司空呼延翼が歩兵を率いて後続となった。西晋朝廷は漢軍を撃退したばかりだったため、すぐにまた到来するとは思っておらず、大いに衝撃を受けた。漢軍は河南で晋軍を打ち破ると、宜陽から西明門に進んで駐屯した。西晋の護軍賈胤や北宮純らは宵闇に乗じ、勇士千人余りを率いて夜襲を掛け、大夏門において漢軍は敗れて征虜将軍呼延が討ち取られた。その為、南へ軍を後退させて洛水に陣営を築いたが、呼延翼が部下の反逆により殺されてしまい、その部隊は潰走してしまった。それでも劉聡は攻勢を崩さずに再び宣陽門に進駐すると、王弥は広陽門に駐屯し、劉曜・劉景らと共に各門から攻勢をかけた。だが、劉聡は戦場の視察の為に本陣を留守にした隙を突かれ、司馬越配下の太傅参軍孫詢・丘光・楼?らに奇襲を掛けられ、大敗を喫してしまった。
ここに至って王弥は劉聡へ「今、(我々の)軍は利を失っており、洛陽の守備もなお強固です。また車の運送しようにも道が狭く、糧食は数日も支えきれません。殿下は龍驤(龍驤大将軍の劉曜)と共に平陽に戻られるべきです。糧食を徴発した後にまた挙兵しましょう。下官(自分の事)も兵士と食糧を集め、?州や豫州で命を待ちます。来るべき日に備えておきます。これをどうして不可としましょうか」と進言した。劉聡は今更帰還など出来ないとして軍を動かそうとしなかったが、劉淵からも撤退命令が届くと、遂に軍を帰還させた。
11月、王弥もまた?轅関から撤退したが、司馬越配下の薄盛・李ツらより追撃を受け、新汲においてこれを迎え撃つも敗れ去った。その後、2千騎を率いて襄城の諸県へ侵攻した。当時、河東・平陽・弘農・上党に住んでいた数万家の民が、潁川・襄城・汝南・南陽・河南に避難してきていた。彼らは元々いた住民から冷遇されていたことから、城村を焼き払い、二千石の長吏を殺害して王弥に呼応した。 12月、王弥は自らの左長史(参謀役)である曹嶷を安東将軍に推挙し、彼を青州攻略に当たらせるよう上奏すると、劉淵はこれを許可した[5]。こうして曹嶷に5千の兵と宝物を与えて青州へ派遣し、流民を招集させると共に王弥の一族を迎え入れるよう命じた。曹嶷は青州に到達すると、西晋軍との抗争に苦しみながらも東平郡・琅邪郡・斉郡などを支配下に入れていき、数年を掛けて次第に大きな勢力となっていった。
曹嶷を青州へ派遣