王延鈞
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恵宗 王?
?
第3代皇帝
王朝?
在位期間
天成元年12月8日 - 永和元年10月19日
927年1月14日 - 935年11月17日
都城長楽府(福州
姓・諱王延鈞→王?
諡号斉粛明孝皇帝
廟号恵宗
生年不詳
没年永和元年10月19日
935年11月17日
太祖
后妃陳金鳳
年号龍啓 : 933年- 934年
永和 : 935年 - 936年

王 延鈞(おう えんきん)は、十国?の第3代君主で初代皇帝。太祖王審知の次男。廟号は恵宗。
生涯

天成元年12月8日927年1月14日)、王審知の養子である王延稟と協力して政変を起こし、兄の嗣王王延翰を殺害して王位を奪った。即位後まもなく後唐より威武軍節度使・?国王に封じられている。

王延鈞は仙術に心酔し、宝皇宮を建築して道士陳守元に与えている。また陳守元の言葉に従い帝号を欲し、長興3年(932年)に後唐に対し呉越王・尚書令に封じるよう求めたが、拒否されたため後唐との関係は断絶してしまう。

長興4年(933年)、王延鈞は帝号を称し、国号を大?と改め、独自の元号として龍啓を建元、自らも王?と改名した。しかし恵宗は自国の国力を客観的に理解し、無謀な国政運営を行わなかったため、国内は比較的安定していた。

後宮関係では陳金鳳を寵愛していた。陳金鳳は王審知の婢女であり、容姿は美しいとは言いがたいが淫蕩な性格を有していたという。恵宗が晩年病を得ると、陳金鳳は部下の李可殷と私通するようになり、国人はこれを大いに恨んだと言う。永和元年(935年)、陳金鳳は立后されるが、恵宗の病状は更に悪化するに至り、次男の王継鵬と皇城使李倣は事前に陳后の勢力を排除すべく挙兵、李倣が宮廷内に入り恵宗を刺し、瀕死の重傷を負った恵宗は宮女の助けを借りて自害し、陳后勢力は一掃された。
宗室
后妃

明恵皇后 劉華(
劉隠の次女、南漢の清遠公主)

廃后金氏

皇后 陳金鳳

男子

建王 王継厳 - 母は明恵皇后

康宗
王継鵬 - 母は明恵皇后

福王 王継韜 - 母は明恵皇后

臨海郡王 王継恭 - 母は明恵皇后

王継鎔 - 母は陳金鳳










?の第3代皇帝(926年 - 935年)

太祖897-925 / 嗣王925-926 / 恵宗926-935 / 康宗935-939 / 景宗939-944 / 朱文進944-945 / 天徳帝943-945


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