王寵恵
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王寵恵

プロフィール
出生:1881年12月1日
光緒7年10月初10日)
死去:1958年民国47年)3月15日
 中華民国 台湾省台北市
出身地: イギリス領香港
職業:政治家・法学者
各種表記
繁体字:王寵惠
簡体字:王?惠
?音:Wang Ch?nghui
ラテン字:Wang Ch'ung-hui
和名表記:おう ちょうけい
発音転記:ワン チョンフイ
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王 寵恵(おう ちょうけい)は、清末民初の政治家・法学者。中国同盟会以来の革命派人士であり、法学の大家として北京政府国民政府において要職を委ねられた。また、一時は臨時国務院総理をつとめたこともある。さらに国際的にも法学者としての名声が高く、国際連盟常設国際司法裁判所判事にもなった。は亮疇。原籍は広東省広州府東莞県(現:東莞市)。
生涯
革命派としての活動

キリスト教牧師の家庭に生まれる。幼い頃から英文を学び、1895年光緒21年)、天津北洋大学堂法科に入学した。1900年(光緒26年)に卒業し、上海南洋公学で教官をつとめる。翌年、日本に留学して法律・政治を研究した。また、東京で創立された『国民報』において英文記者を担当している。その後、欧米に留学して、イェール大学法学博士号とイギリス弁護士資格を取得した。また、ベルリン比較法学会に所属して、ドイツ民法を英文に翻訳した。[1][2][3]

1904年(光緒30年)、ニューヨークを訪問した孫文と王寵恵は対面し、孫文の「中国問題の真の解決」を英訳(The True Solution of Chinese Question)して公表した。翌年に中国同盟会が成立すると、王もこれに加入している。1911年宣統3年)9月に王は帰国したが、まもなく辛亥革命が勃発したため、王は上海都督陳其美の顧問として招聘された。さらに南京で開かれた各省代表会議に、王は広東代表として出席し、会議の副議長に推された。[4][5][2]
北京政府での活動北京政府末期の頃
Who's Who in China 3rd ed. (1925)

1912年民国元年)1月、中華民国臨時政府において、王寵恵は外交総長に任命された。3月、袁世凱が臨時大総統となり、唐紹儀が内閣を組織すると、王は司法総長に転じた。しかしまもなく、唐が袁との対立により辞任したため、王もまた辞職した。その後は、孫文が創設した鉄路総公司顧問などをつとめる一方で、復旦大学副校長に就任し、憲法の研究に励んだ。1915年(民国4年)、袁が皇帝即位を目論むと、王もこれを支持するよう誘われるが、拒絶している。[6][7][2]

袁世凱死後、王寵恵は北京に赴いた。1917年(民国6年)、法律編纂会会長に就任し、1920年(民国9年)には大理院院長、北京法官刑法委員会会長、法理委員会会長を歴任する。1921年(民国10年)10月、施肇基顧維鈞とともに北京政府全権代表として、ワシントン会議に出席した。[6][7][2]

帰国後の同年12月、王寵恵は梁士詒内閣で司法総長に任命される。翌年5月、胡適らと共に『我々の政治主張』を公表し、憲政的にして公開された政府(「好人政府」)による計画を有する政治の必要性を説いた。同年9月、王は、直隷派呉佩孚の支持を受けて署理国務院総理に就任した。しかし直隷派内では、「津保派」の曹?と「洛派」の呉との対立が激しく、王は津保派の横槍を受けた。さらに11月には、財政総長羅文幹が総統黎元洪の命令により逮捕される事件まで起こり、王内閣は短期間で崩壊に追い込まれたのである。[8][7][2]

その後、1923年(民国12年)、王寵恵はデン・ハーグ常設国際司法裁判所判事に就任する。1924年(民国13年)、孫宝g内閣で司法総長をつとめ、翌年には修訂法律館総裁に就任した。その後、中国国民党による北伐の機運が高まると、王は国民党側に転じ、第2期党中央監察委員に選出された(以後、第5期まで同様に中央監察委員に選出されている)。[9][7][2]


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