王宇
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この項目では、前漢末期の人物について記述しています。明代の官僚の同名の人物については「王宇 (明)」をご覧ください。

王 宇(おう う、前27年? - 3年)は、前漢末期の人物。は長孫。王莽の嫡子[1]。|
生涯
若年時代

河平2年(前27年)頃、王莽と王氏(王?の孫の宜春侯王咸の娘)の間に長男として生まれる[2]

永始元年(前16年)、漢の成帝によって、父の王莽が列侯である新都侯に封じられる。王莽は、都尉光禄大夫侍中に任じられ、謙虚で節操あるふるまいを行い、賓客にほどこし、家には何も残さず、その名声は高かった。

父の王莽には、すでに死去した王永という兄がいたが、王永の子である王光を大事に育てていた。王宇は王光より年長であったが、王莽は二人に同じ日に妻をめとらせた。その時に祝い客は堂にあふれるほどであった。
弟の王獲の死

建平2年(前5年)、王宇の父の王莽は、丞相朱博哀帝外戚である丁氏や傅氏との政争により、職を辞して、領地に帰ることとなった。王莽は家族とともに領地にいて、門を閉じて、ひかえめにしていた。

この頃、王宇の次の弟にあたる王獲(字は仲孫)が、奴隷を殺害した。王莽は厳しく、王獲を責め、自害に追い込んだ。

東晋次は、「王莽の心事を推し量ると、みずからが蟄居させられたことに示される、王氏の衰勢の明らかなこの時期に、反対勢力につけ入るスキを与えることは絶対に避けたいところであろう。決して我が子が憎いわけではなかったであろう。やむを得ない次男一人の身の始末によって、自分たち家族へわざわいがふりかかることは押しとどめるのが精一杯ではなかっただろうか。王莽の人格批判をなす論者には、彼が子供を平気で自殺させたことをあげつらうが、決してそうではないのではなかろうか」と論じている[3]

王莽が領地にいる三年間の間に、官吏のうち、王莽の(罷免されたことに対する)冤罪を訴え上書するものが百名以上あった。

元寿元年(前2年)、日食があり、(官吏登用試験の)賢良の科の人物である周護と宋崇らが対策をあげて、王莽の功徳を深く称揚した。哀帝は王莽をまた、任用することにした。
衛姫に上書させる

元寿2年(前1年)、皇帝に即位していた哀帝が死去し、わずか9歳の平帝が即位することになった。王莽は、平帝の外戚を排除して、権力を独占しようとして、太皇太后であった王政君(王莽の伯母)に進言した「前の哀帝は、皇帝に即位してから、(王氏が皇帝にするように運動したのに)恩義に背いて、哀帝自身の外戚である丁氏(哀帝の実母の丁姫の家)、傅氏(哀帝の実祖母の傅氏の家)を重んじて、国家を乱し、社稷を危うくしたのです。今の皇帝は幼少で帝位を継ぎ、国家大義の一統を明らかにして、以前の事をいましめとして、以後の事の規範とするべきです」。

そこで、王莽は、(かつて平帝が封じられていた)中山国にいた平帝の外戚たちを中山に留め、平帝の母の衛姫は中山孝王后に、その兄弟[4]の衛宝と、衛宝の弟の衛玄を関内侯に封じて、長安に入らせないようにした。

王宇は、王莽が平帝と衛姫を隔絶したことを正しいとは思えず、また、平帝が長じてから禍を受けることを恐れて、個人的に衛宝に手紙を書いて通じ、衛姫に上書させて、(封じてもらった)恩を謝して、哀帝の外戚であった丁氏や傅氏のかつての悪事を述べて、長安に行くことができるように懇願させた。衛姫は日夜泣いて、平帝に会いたがったため、その通りにした[5]

しかし、王莽は太皇太后であった王政君に進言し、詔を出させた「中山孝王后(衛姫)は、とても分別があり、英明で、子が帝位の後を継ぐということの意義を理解しており、丁氏・傅氏の悪事を述べてきた。中山孝王后は、経義や聖法に通じ、いにしえや最近の事件から学び、天命を恐れて聖なる言葉を大事にされているのであろう。これは、(中山)国を保ち、長い寿命を得て、(夫であった)中山の孝王が長く祭祀をうけられるということであり、これほど良いことはない。義をほめ、善を賞するは聖王の制度である。中山孝王后に七千戸を加え、(新に封じられた)中山王とともに黄金各百斤を与え、傅や相以下の属官の俸給を増やすように」[5]

これは、王莽が衛姫の上書を逆手にとって、永く中山国を保持し、亡き孝王の祭祀を継続するという殊勝な申し出を行った、とその趣旨をねじ曲げて衛姫を褒めあげ、七千戸を益す、という勅書を発出させたのである。衛姫は日夜平帝に会いたいと嘆くばかりであった[6]
父に自害へと追い込まれる

この頃、王宇は呉章という人物に儒学について、師事していた。呉章は、『尚書経』を修め、博士となった人物であり、当世の名儒として、多くの人物に儒学を教授し、弟子が千人以上もいた[7]

元始3年(3年)、王宇は、その師の呉章と妻の兄の呂寛と、衛姫を長安に入らせて平帝に会わせる手段を謀議した。王宇は呉章から提案された「王莽は諫めても無理であるが、鬼神を好んでいる。変異や奇怪なことで王莽を恐れさせておいて、私が似たような話を王莽に説いて、政務を衛氏にもどさせるようにさせよう」。

王宇はそこで、夜間において、呂寛に血を持ちこませて、王莽の屋敷にそそがせた。しかし、呂寛は王莽の門番に見つけられ、発覚してしまった。王宇は王莽によって捕らえられ、牢獄に送られる。王宇は薬を飲んで死んだ[8]

王宇の妻は子を妊娠していたが、やはり、牢獄につながれ、子を産んだ後に処刑された。
呉章と呂寛の最期

呉章もまた、腰斬の刑を受け、東市の門に磔となった。王莽は呉章の弟子たちを悪人の党として、弟子たちを仕官禁止とした。呉章の弟子たちはほぼ師を変えたが、大司徒掾であった云敞だけが、自ら呉章の弟子として辞職し、呉章の死骸を棺におさめて、葬儀を行ったため、長安の人々は云敞を賞賛した[7]

呂寛は逃亡したが、呂寛の父が、広漢太守の楼護と顔見知りだった関係で、呂寛は広漢郡について楼護は頼ったが、事実は語らなかった。数日して、楼護のもとに、名指しで呂寛を捕らえるように詔書が届いたので、呂寛は楼護に捕らえられた[9][10]
王宇の事件の余波

王宇の死後、王莽は、朝廷に奏上した「王宇は呂寛によって誤り、民衆を惑わす流言を行いました。これは、における管叔鮮蔡叔度と同じです。そのため、私はあえて隠さず、王宇を誅殺したのです」。(王莽の腹心である)甄邯らは、太皇太后の王政君に進言して、詔を行わせた「聖人といえども、子に愚かな者がいるのはどうしようもないことである。かつて周公旦が管叔鮮や蔡叔度らを誅殺した後に、おおいに教化させ、刑罰を用いないで済むような秩序ある国をつくりあげた。公(王莽)も誠心誠意、国を助け、太平の世をもたらすように」。

これをうけて、王莽は、衛宝や衛玄ら、衛氏の支族まで誅殺し、新しい中山王后となっていた衛宝の娘まで、合浦に流罪とした。無事なのは衛姫だけであった。

さらに、王莽は、呂寛での牢獄での取り調べにかこつけて、各地の郡国の有力者たちで王莽を批判していた人物や王莽が目障りに思っていた元帝の妹の敬武長公主、漢王朝の皇族である梁王劉立、紅陽侯王立(王莽の叔父)と平阿侯王仁(王莽の叔父の王譚の子で、王莽の従弟にあたる)まで、関係したとして、使者を送って、自害させた。また、王莽の様子から真意を悟った大司空甄豊は使者を使わしてその与党を取り調べさせ、王莽がかねてから誅殺したいと考えていた元三公何武・元司隷校尉鮑宣・彭宏(彭寵の父)など死者の数は百人以上、あるいは数百人にものぼり、この事件で、中国内は震駭した[11]

敬武長公主は、哀帝時代に王莽のいる王氏と対立していた哀帝の外戚の傅氏や丁氏に近づき、王氏をうとんじていた。平帝が即位し、王莽が政治を握り、王莽が安漢公に任じられてからも、王莽を非難し続けた。敬武長公主の義理の子である薛況は、呂寛と仲がよかったがために、取り調べをうけた。王莽は敬武長公主の罪過をあばいて、王政君の詔であると使者に言わせ、敬武長公主に自害させ[12]

梁王劉立は、衛姫の親族である衛氏と交流していたために、庶人とされ、漢中に流罪となった[13]。しかし、翌年の元始4年(4年)に自害を命じられた[14]

王莽の一族である紅陽侯王立・平阿侯王仁は王莽とかねてから不仲であり、この時に、自害に追い込まれた。ただし、爵位は子がついだ[15]

何武は封じられた領地にいたが、讒言をうけて、大理正の檻車にいれられ、自害する。多くの人々が何武の冤罪であると訴えたため、王莽は人々の意向にあわせようと、何武の子の何況を列侯である嗣為侯に封じた[16]

鮑宣は上党郡に流されていた。隴西郡の辛興が指名され手配されており、辛興と鮑宣の娘婿の許紺が鮑宣のところを立ち寄り、一度、食事して立ち去った。鮑宣は事情を知らなかったが、連座して牢獄につながれ、自殺した[17]
王宇が起こした事件への評価

東晋次は、「王宇や呂寛また呉章の判断では、王莽が政権を衛氏に帰る余地がまだあり、またそうすることが皇帝と外戚の関係からして当然だと考えていた節があるようなのである。しかしこの時期の王莽は、すでに自己の政治権力をずっと保持しようと考えていたのではないだろうか。というのは、(中略)、王莽のこの事件にことよせた責任追及や弾圧が様々な人にまで及んだからである」、また、「王莽にとって、この事件はある意味では絶好の機会ではあったのだろう。強引すぎるやり方の中に、王莽の決然たる意志を読みとることができるのではなかろうか。自己の理想の政治を実現するためには、子供を自殺に追いやったり、政敵を追放することもやむを得ない、との判断がそこには含まれているように思われる。


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