王子
町丁
JR王子駅北口
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分33秒 東経139度44分15秒 / 北緯35.759156度 東経139.737569度 / 35.759156; 139.737569
座標位置:王子三丁目交差点付近
国 日本
都道府県 東京
特別区 北区
地区王子地区
人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1])
人口23,651 人
世帯数13,123 世帯
面積([2])
1.142631509 km²
人口密度20698.71 人/km²
郵便番号114-0002[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート練馬
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王子(おうじ)は、東京都北区の町名[5]。現行行政地名は王子一丁目から王子六丁目。住居表示実施済区域。 東京都北区中央部に位置する。西で京浜東北線、中央を南北に国道122号(北本通り)がそれぞれ縦貫している。京浜東北線・東京メトロ南北線の王子駅から北本通り沿いは王子随一の繁華街である[5]。北側で神谷、隅田川を跨いで足立区新田・東で豊島・東南で堀船・南で西ケ原・西南で滝野川・西で岸町、北西で東十条と接する。また、西の音無橋
地理
昭和40年代までは旧王子製紙(過度経済力集中排除法による会社分割前の王子製紙であり現在の同名企業とは異なる)の工場や社宅が多く立ち並んでいた。その後相次いで閉鎖され、商業施設サンスクエアや王子五丁目団地などが建設された。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、王子2丁目17番17の地点で48万6000円/m2となっている[6]。 広域地名としての「王子」は以下の範囲を指している。 北区の成り立ちから、同区は王子を含む以下の地域を総じて王子地区と呼称している。 『義経記』によれば源頼朝が隅田川を渡河して王子板橋に至ると書かれている[5]。平安時代後期から室町時代にかけては上中里に位置する平塚城(現・上中里駅から攻坂
河川
石神井川 - 溝田橋が架かる。
隅田川 - 豊島五丁目の北辺が隅田川に面している。
地価
広域地名
1939年の町名整理実施以前の東京市王子区王子町、町村制施行時点での北豊島郡王子村(のちに王子町)大字王子に当たる区域。おおよそ現在の王子一?六丁目、王子本町一?三丁目、岸町一・二丁目、東十条三丁目に当たる。
町村制施行時点での北豊島郡王子村(のちに王子町)の区域。現在の北区王子地区。
王子町が東京市に編入された時点で成立した「王子区」の区域。上記王子町に旧:岩淵町を加えた区域。現在の北区王子地区および赤羽地区全域。
王子西地区:上記2の内、JR東日本東北本線より西の区域
王子東地区:上記2の内、JR東日本東北本線より東の区域
歴史狐の行列
王子という地名については、『新編武蔵風土記稿』によれば、現在の岸町周辺にあたる岸村が鎌倉時代後期の元亨2年(1322年)、豊島氏がこの地に紀伊牟婁郡熊野若一王子を勧請したことから王子村と改称したことが起こりとされる[7]。これが現在の王子神社であり、王子神社の田楽として著名な北区指定無形民俗文化財「王子田楽[8]」は王子宮勧請の際に創生された魔除けの田楽芸能とされる。
江戸時代になると王子村の中心には日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、18世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。飛鳥山の花見人気とともに、王子村の岸にある王子稲荷神社がもともと東国33ヶ国(東海道の15国、東山道の11国、北陸道の7国)の稲荷社の頭領を自認していたこともあってか参拝客が増え、料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承をもとに毎年大晦日には狐の行列[9]が催される。
明治時代に入ると王子村は周辺の村々が合併して新たな王子村となり、旧王子村が大字王子として新設された村の中心となった。1875年になると、台地東の低地(現:王子駅の東側)に日本で最初の洋紙工場(旧王子製紙、王子ホールディングスおよび日本製紙の前身)が操業を開始した。翌年には印刷局がその隣接地に印刷所を設立し、石神井川・隅田川に沿った一帯の低地(現・北区王子、北区豊島)に工場が建設され始める。
1883年には、高崎線の上野・熊谷間が開通すると王子駅が設けられた。その後工場進出が進み、大正の頃までに薬品、肥料の民間工場や火薬の工廠等が次々に生まれ、東京市北郊で屈指の工業地域に成長する。