東京に存在した「王子電気軌道」とは異なります。
王子軽便鉄道
軌間762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
21.8
0.0
分岐点
?
滝ノ上
3.2
湖畔(I) -1930頃山線鉄橋
3.2
湖畔(II) 1930頃-
川口千歳鉱山専用軌道[注 1]
王子軽便鉄道(おうじけいべんてつどう)[1]は、北海道苫小牧市の王子製紙苫小牧工場から千歳市烏柵舞(うさくまい)の千歳川上流に設けられた自社工場向け水力発電所や支笏湖畔とを結び、発電所の建設資材や支笏湖周辺の森林資源を運搬する目的で敷設された軽便規格の専用鉄道である。貨物輸送のための鉄道であったが、後に一般客扱いも行った。 1904年(明治37年)9月、経営不振に陥っていた王子製紙は業績浮上を新工場に求め、これを設立する最適地を苫小牧村に定めた[2]。工場のための発電所の建設地へ建設資材を運搬するにあたり、当初は馬車軌道を敷設したが、発電機などの大型機械類運搬に対応できないため、直後に蒸気機関車運転に変更した[3]。その後、支笏湖周辺や樽前山麓の御料林からの木材運搬にも使用されて、1935年(昭和10年)には年間20万石以上の輸送量を記録している[3]。また発電所の建設にあわせ、千歳川下流へと終点駅は移動した。旅客扱いは関係者やその家族等に限り当初より行われていたが、1922年(大正11年)からは支笏湖観光の気運を受けて一般乗客を受け入れ、修学旅行などにも使用された[3]。また、1936年(昭和11年)頃からは支笏湖対岸の美笛(びふえ)から、湖上運搬船を経由した千歳鉱山(美笛鉱山・千徳鉱山)の金鉱石運搬も行っていたが[3]、第二次世界大戦後、市内から支笏湖湖畔に向け道路が整備されるにつれ、トラックや苫小牧市営バスなどの自動車の通行が始まると、苫小牧から支笏湖までの所要時間が軽便鉄道で1時間45分に対し、バスやトラックは約45分と1時間もの時間短縮が見られたため[3]、旅客も貨物輸送も急速に自動車に移行し、道路の整備からさほど間を開けずに廃止に至った[3]。なお廃止に当たっては当鉄道に従事していた人員を自社バスの運行要員に転換している[3]。苫小牧市民は海側に敷設された苫小牧軽便鉄道(後の日高線、現在の日高本線)を通称「浜線」、山側に敷設されたこの専用線を通称「山線」と呼んで親しんでいた[3]。 2020年1月、支笏湖畔に王子軽便鉄道「山線湖畔驛」が開館した[4]。
概要
歴史1922年(大正11年)7月22日、摂政宮皇太子(後の昭和天皇)が支笏湖へ向けて山線の苫小牧駅を出発したときの様子。この時の機関車(3号機)の同型の4号機が貴賓車と共に現在も保存されている。1922年(大正11年)7月22日、摂政宮皇太子(後の昭和天皇)が支笏湖畔駅(正しくはその手前)から千歳川の木橋を渡り王子製紙別邸へ向かう様子。木橋を渡って敷かれている軌道が確認できる。
1908年(明治41年)
4月 - 馬車軌道敷設工事竣工[3]。苫小牧-烏柵舞 本線 17M(マイル)28C(チェーン) / 工場-海岸 採砂線 3M2C / 本線-採砂線の連絡線 30C / 坊主山延長線[注 2] 1M13C[3]。
5月13日 - 試運転[3]。
6月16日 - 政府より苫小牧-第一発電所、支笏湖支線、同連絡線の専用鉄道敷設許可[3]。
- 蒸気機関車2両購入[3](後にさらに3両購入[3])。
8月12日 - 運転開始許可[3]。
8月14日 - 運転開始[5]。
1910年(明治43年)9月 - 烏柵舞発電所(第一発電所)完成[6]。
1915年(大正4年)9月21日 - 第一発電所-第二発電所線 2M56C 敷設免許[7][注 3]。
1916年(大正5年)3月 - 第二発電所完成[6]。
1918年(大正7年)3月 - 第三発電所完成[6]。