王公族
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王公族(おうこうぞく、朝鮮語: ???)は、韓国併合後の旧韓国皇帝とその一族(李王家)の日本における称号である王族と公族の総称である[1][2]。皇帝の直系が王族、李王家の一族である2家が公族だった[2]

本記事では制度としての王族・公族について記述し、家系については李王家で記述する。
概要

1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約により韓国併合された後、同条約に基づき、韓国皇帝(純宗)、太皇帝(高宗)、皇后(尹氏)、皇太子()の4名が「王族」に、李?李熹が「公族」となった[3]。それぞれ、男子によって継承された。

一部制約があったものの(後述)、日本の皇族に準じる扱いを受けており、また李垠は後に梨本宮家の方子女王と婚姻し、皇室と姻戚関係となった。昭和時代になると王公族は皇族とほぼ同一視され、李垠は軍隊において他の皇族と同じように「宮様」と呼ばれていた[4]

1926年(大正15年)12月1日に「王公家軌範」が公布され、細部の制度が確立されるとともに、皇族男子同様、旧日本陸軍又は旧日本海軍へ武官として任ぜられることが義務付けられた[5](詳細は皇族軍人も参照)。うち、李?公が公務中に広島市への原子爆弾投下で被爆・薨去し、「戦死」扱いとなっている[6]

1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法の施行前後に身位を喪失した。
歴史
成立

日本において韓国併合の方針が固まりつつあると、大韓帝国皇族の扱いについても検討が開始され始めた。1909年(明治42年)に日本で作成された『大韓細目要項基礎案』では、併合後の韓国皇帝純宗にはヨーロッパの例(Grand Duke、大公)に倣って「大公」、太皇帝高宗と皇太子、義王李?は「」の称号で呼び、敬称として「殿下」を用いることとされていた[7]。さらに大公とその一門を東京に移住させ、政治には関わらせないようにするとされていた[8]。これは純宗を日本の皇太子の下、親王の上に位置づけるという明治天皇の意向に基づき、外務省が作成したものであった[7]

1910年(明治43年)8月16日、京城(現在のソウル特別市)において併合交渉が始まり、韓国統監寺内正毅大韓帝国首相李完用と農商工部大臣趙重応に対して併合の概要を提示した。李完用は唯一の希望として「韓国」の国号と「王」の尊称を残すことを述べた。寺内は国号については「朝鮮」に改める点を伝達し韓国側の了承を得たが、単に「王」とすると将来において「朝鮮王」を名乗る危険性があるとして「李王」という案を提示した[9]。趙重応はこれに不満であったが、やむを得ず了承した[9]

当時日本は関東大水害によって混乱しており、また通信の問題により韓国での交渉の経緯も十分に伝わっていなかった。8月16日に作成された詔書案では、純宗と高宗に対して大公、王世子を公、義王については一代限りの公とするとされていた[10]。これを受けた寺内は8月17日に大公を王に改めるよう桂太郎首相に要請し、承諾された。8月20日には寺内から純宗を李王として昌徳宮を称させ、高宗は太王として徳寿宮と称させ、更に公として高宗の兄であり、8月15日に興王となった李熹も公に列するよう伝えた[11]。8月22日には日本政府から純宗を「王」にするとし、「李王にあらず」と注釈をつけて伝えた。新城道彦は、宮内省皇族の礼遇を受ける王公族に姓である「李」をつけるのを嫌ったものとしている[12]

8月22日に調印された韓国併合ニ関スル条約により韓国併合された後の大韓帝国皇室の扱いについて、同条約は以下のように定めた。日本国皇帝陛下ハ 韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ 各其ノ地位ニ応シ 相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ 且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス ? 韓国併合ニ関スル条約第3条

8月29日、「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為ス詔書」「李?及李熹ヲ公ト為スノ詔書」(以下、「冊立詔書」とする)が出され、李王家に対して「皇族の礼」と「殿下」の称を用いることが定められた。

王公族の監督権については統監府側が要求していたが、宮内省によって監督されることとなった。1911年(明治44年)2月1日には李王職官制(明治43年皇室令第34号)に基づき、宮内大臣の管轄下で王公族の家務を掌る李王職が京城に置かれた。李王職の職員はほとんどが大韓帝国の宮内府の職員であり、朝鮮に駐在する職員については朝鮮総督の監督下にあると規定された[13]
制度の確立1938年(昭和13年)、靖国神社を参拝した王公族
左から、李王垠、李鍵公李?公

その後しばらくは、李王家の扱いは法的に定まっていなかったが、1916年(大正5年)に王世子李垠梨本宮家の方子女王の間に縁談が持ち上がり、李王家の法的関係を定める必要が生まれた。11月4日に枢密顧問官伊東巳代治を総裁とする「帝室制度審議会」が設立され、折から問題となっていた皇室令改正とあわせて李王家の問題も扱われることになった。

審議の結果、王公族制度は日韓併合条約とその後の詔書に基づくこと、身分は皇族に準じ、臣籍ではないことなどを基本とした「王公家軌範案」が作成され、「皇室令」によってこれを公布するという形を取ることとした[14]。しかしこれは枢密院では否決されてしまい、採択に至らなかった。枢密院は皇族以外の存在である王公族の身分を皇室令で定めることには反対であり、一般臣民の規定同様法律の制定によって定めるべきであると主張した[14]。これは元老山縣有朋の強い影響下にあった枢密院が、伊東の影響力が増大することを恐れていたという背景もある[14]。一方で枢密院は李垠と方子女王の結婚自体については賛同しており、皇室典範を増補して王公族を皇族の結婚相手として認める案が出された。しかし帝室制度審議会の伊東と平沼騏一郎は王公族と皇族が同族ではないと明示するような増補には強硬に反対した[15]。天皇の沙汰という形になっている縁談を中止することはできず、政府と宮内省は帝室制度審議会の反対を押し切って皇室典範の増補に踏み切った。1918年(大正7年)11月2日、皇室典範増補は皇族会議の満場一致で採択され、12月1日に正式に李垠と方子女王の婚約が成立した[16]

1922年(大正11年)に山縣が没し、伊東の勢力が拡大したことと、旧山縣閥の一木喜徳郎が宮内大臣に就任し、皇室制度改革に協力的になったことで、王公家軌範制定の道筋がつけられるようになった[17]。こうして「皇室令によって王公族の身分を定めることを、法律によって認める」ことで法的な疑義を解消する方針が固まった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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