王仁
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古代前漢帝国の人物については「王仁 (前漢)」をご覧ください。
王仁(『前賢故実』より)伝王仁墓.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理ノートで検討しています。(2024年4月)

王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である[1](記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、記録では楽浪郡の王氏という言及はなく、百済人である記録だけ存在する。また志田諄一も王氏を名乗る朝鮮系の人々が存在したことを認めている[3][7][15][18][19]。一方、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立しておらず、この矛盾については、早く江戸時代新井白石伊勢貞丈らによって提起されており、実在の人物とは認め難いとする説も多数存在する。また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある[20][21][22][23][24][25][26][27][28][29]
記録

王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。
日本書紀

王仁に関するもっとも詳細な記述は『日本書紀』のものであり、百済人の使者阿直岐(あちき)を介して来朝したという。『日本書紀』記事ついて笠原一男は、「まず儒教についてだが『日本書紀』には応神天皇(五世紀前半?)の時代に百済から伝わったと記してある。しかし、漢字はすでに奴国王金印でも知られ、五世紀には刀剣銘文にも用いられているのだから、この記述は王仁を始祖とする西文氏の起源伝承とみるべきだろう。儒教伝来については注目したいことがいろいろある。一つはそれが百済から伝えられたことだ。六世紀の日本は中国との直接交渉がなく、百済を通じて中国南朝の文化を導入したのである」と指摘している[30]。十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣?阿直伎?、貢?良馬二匹?。?養?於輕坂上厩?。因以?阿直岐?令?掌飼?。故號?其養?馬之處?、曰?厩坂?也。阿直岐亦能讀?經典?。?太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問?阿直岐?曰、如勝?汝博士亦有耶。對曰、有?王仁者?。是秀也。時遣?上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟?、仍??王仁?也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習?諸典籍於王仁。莫?不?通達?。所謂王仁者、是書首等之始祖也。 ? 『日本書紀』、巻第十、応神紀[31]十五年の秋八月六日に、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}百済王(くだらおう)は、阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。そのまま軽(かる)の坂上(さかのうえ)の厩(うまや)で飼わせた。それを阿直岐(あちき)に管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂(うまやさか)という。阿直岐(あちき)はまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は学問の師とされた。天皇は、阿直岐(あちき)に尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁(わに)という者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の祖の荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなきわけ)を百済に遣わして、王仁(わに)を呼び寄せなさった。その阿直岐(あちき)は、阿直岐史(あちきのふひと)の始祖である。
十六年の春二月に、王仁(わに)が来て、すぐに太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が師とされ、多くの典籍を王仁(わに)に習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁(わに)は書首(ふみのおびと)らの始祖である。 ? 『日本書紀』、巻第十、応神紀[32]
古事記百濟國主(クダラノコニキシ)照古王以?牡馬壹疋(ヲマヒトツ)、牝馬壹疋(メマヒトツ)ヲ ? 、付テ?阿知吉師ニ? 以貢上(タテマツリキ)、此阿知吉師者、阿直史等之祖、亦貢?上(タテマツリキ) 横刀(タチ) 及(ト)大鏡(オホカヾミトヲ)、? 又科? 賜百濟國(クダラノクニニ)、? 若有? 賢人? 者(モシサカシビトアラバ)貢上(タテマツレトオオセタマフ)、 故受?命(カレミコトヲウケテ) 以貢上人(タテマツレルヒト) 、名ハ 和邇吉師、?チ論語十卷、千字文一卷、?セテ十一卷ヲ、付テ?是人ニ? ?貢進(タテマツリキ)、此和邇吉師者、文首等祖 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[33]また、百済国王の照古王(しょうこおう)が、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師(あちきし)に託して献上した[この阿知吉師は阿直史らの祖先である]。さらに(照古王)は横刀と大鏡とを献上した。また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師(わにきし)で、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首(ふみのおびと)らの祖先である〕。 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[34]

和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[35]
古語拾遺

古語拾遺』では至テ ? 於輕嶋(カルシマ)ノ 應神天皇豐明(トヨアキラ)ノ朝ニ? 百濟ノ王貢ル ?博士王仁(ハカセワニ) ヲ是河内ノ文首始祖(フミノオヒトノオヤ) 也(中略)
至テ? 於後磐余(イハレノ)覆仲天皇稚櫻(ワカザクラ)ノ 朝ニ? 三ノ 韓貢獻(ミツギタテマツルコト) 奕世(ヨヽ)無(ズ) ?絶(タエ)齋藏之傍(カタヘ)ニ更建(タテヽ)内藏(クラ)ヲ? 分收(ヲサム)官物(ミヤケ)ヲ ?仍令メ?阿知ノ使主ト與? 百濟ノ 博士王仁?計サ?其出シ納ルヲ ?始更(サラニ)定?藏部(クラヒトベ) ? 古語拾遺、齋部宿禰廣成[36]応神天皇輕嶋(かるしま)の豊明(とよあきら)の朝(みかど)に至りて、百済(くだら)の王(こにきし)博士(はかせ)王仁(わに)を貢(たてまつ)る。


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