玉音放送
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玉音放送(ぎょくおんほうそう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:玉音󠄁放送󠄁)とは、天皇の肉声を放送すること。

通常、1945年昭和20年)8月15日正午日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。

この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。
概要.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」1頁目2・3頁目(2頁目に補入や、紙を貼って訂正を行った跡が見られる)4・5頁目6・7頁目

ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日、の御前会議において昭和天皇裁可を仰ぎ、7月26日連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。「総力戦研究所#机上演習」および「昭和16年夏の敗戦」も参照

ポツダム宣言は「全日本国軍隊無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。

御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨臣民国民)に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国スイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリスアメリカ合衆国中華民国ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。

昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤録音させ[注 1]、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。

連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが[1]、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイア零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。

放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。

放送はアセテート盤[注 2]のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上[注 3]、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった[2][3]

玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国英国支那蘇聯の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である[注 4][注 5](この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。


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