玉葉和歌集
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『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。

本文中に引用した玉葉和歌集の和歌の歌番号は新編国歌大観に拠る。

概要

鎌倉時代後期、当時の沈滞した和歌のあり方に疑問を持った京極為兼は、歌を詠むにあたり、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を主張するようになった。その主張は、為兼が仕えた皇太子時代の伏見天皇と側近の文芸愛好グループに受け入れられ、京極派の和歌が始まった[1]。伏見天皇の在位中、永仁勅撰の議と呼ばれる勅撰和歌集撰集が試みられたが、この時の撰集は挫折を余儀なくされる[2]。しかし徳治3年(1308年)、花園天皇の即位によって伏見上皇が治天の君の座に復帰し、京極派主導の勅撰和歌集撰集計画が復活する[3]

京極為兼に主導された京極派の和歌は、当時の和歌の常識からは大きくかけ離れたものであったため、強い批判も浴びていた[4]。特に和歌の家、御子左家宗家である二条為世は、京極為兼が撰者となる勅撰和歌集撰集に強く反発し、為兼と為世との間で延慶両卿訴陳状と呼ばれる激しい論争がなされた。結局、伏見上皇の院宣により、為兼が勅撰和歌集を独撰することで決着した[5]

京極為兼が撰んだ勅撰和歌集は、玉葉和歌集と名づけられた。全20巻、収録された歌数は21ある勅撰和歌集の中でも最大の約2800首に及び、あまりに肥大化してしまった点は玉葉集最大の欠点とされる。しかし構成的には上古から和歌集編纂当時までの名歌人、名歌を満遍なく収録し、ミスの少ない堅実なものになっており、玉葉和歌集を和歌史の中に位置づけるような構成となっている。もちろん中世和歌史に新風を吹き込んだ京極派の和歌も多く撰ばれていて、和歌史の中に京極派の歌風を位置づける構成にもなっている[6]

京極派主導の勅撰和歌集としては後に『風雅和歌集』が撰集されたが、観応の擾乱の影響で京極派は壊滅した。その結果、明治初期まで伝統派である二条派の歌壇支配が続くことになり、長い間、玉葉和歌集、風雅和歌集は邪道であり異端であると見なされた[7]。しかし近代になって再評価が進み、特に迫真の自然詠に高い評価がなされている[8]
玉葉集編纂の経緯京極為兼が提唱した歌風に基づく京極派主導の勅撰和歌集撰集は伏見天皇の悲願であった。

皇太子時代の伏見天皇に仕え始めるようになった京極為兼は、言葉の解釈や故実の詮索に明け暮れ、枝葉末節に過ぎない知識のひけらかしが蔓延し、多くの規則に縛られた当時の和歌のあり方に大きな疑問を持っていた。和歌とは何か、歌を詠むべき態度、よい和歌とはどのような和歌であるかを真剣に考えるべきであると考えた為兼は、伏見天皇側近の文芸愛好グループに参加するようになった後、『為兼卿和歌抄』を著し、言葉で心を詠む当時の伝統的な和歌のあり方を否定し、事物に触れる中でおのづから動いていく心のままに歌を詠むべきで、その表現方法も自由であると主張するようになった[9]

朝廷が大覚寺統持明院統両統迭立の時代の中、為兼の主張は伏見天皇を始めとする持明院統宮廷に受け入れられ、和歌の強固な伝統を打破し、新しき和歌を創造する挑戦が始まった[10]。そのような中、弘安10年(1287年)、大覚寺統の後宇多天皇は譲位し、伏見天皇が践祚した。持明院統の治世となり、伏見天皇は京極為兼が主導する新たな和歌観に基づく勅撰和歌集撰集を考えるようになった[11]
実らなかった永仁勅撰の議

永仁元年8月27日(1293年9月28日)、伏見天皇は二条為世、京極為兼、飛鳥井雅有、九条隆博の四名に勅撰和歌集撰集について諮問した。これを永仁勅撰の議と呼ぶ[12]。諮問当日、天皇は病気で不参の飛鳥井雅有以外の三名に、撰集の下命は何月が良いか、下命の形式、歌を撰ぶ範囲、そして当時の勅撰和歌集撰集の際に慣例となっていた応製百首詠進の勅命はいつ下すのがよいかについて尋ねた。下命の形式は三名とも綸旨によるべきであるとし、応製百首詠進の勅命についても撰集の下命の前後どちらでも構わないと意見が一致したが、あとの二点については意見が分かれた。まず撰集の下命は何月が良いかについては、二条為世は後撰和歌集の佳例に倣って10月が良いとしたが、京極為兼はこれまでの勅撰和歌集の下命が行われた月が、特に決まりはなくばらばらであることを指摘した上で、特に決まった月に行う決まりがない以上、当月(8月)で良いとした。九条隆博は為兼の意見に賛同した[13]

そして和歌集撰集の根幹に関わる、歌を撰ぶ範囲については、為世はこれまでの勅撰和歌集撰集によって良い古歌はあらかた撰び尽くされているので、上古の和歌は撰ばず、それ以降の和歌から撰ぶのがよいとした。一方、為兼は天皇は古風を尊んでおられるので、上古の和歌も対象とすべきであると主張した。ここでも隆博は為兼の意見に賛同し、結局二条為世と京極為兼の対立点はともに為兼の意見が通り、即日、これまで勅撰集に撰ばれなかった上古以来の和歌を撰ぶよう、勅撰和歌集撰集の綸旨が下された。また撰者も伏見天皇が諮問した二条為世、京極為兼、飛鳥井雅有、九条隆博の四名に命じられた。その後冷泉為相は自らも撰者に加わりたいと自薦し、二条為世は撰者を辞退し、冷泉為相を厳しく批判した上で自らの息子である二条為道が撰者にふさわしいと推薦したが、冷泉為相、二条為道とも撰者に加わることはなかった[14]

この伏見天皇の勅撰和歌集撰集の経緯は、天皇が寵臣京極為兼が主導する形での勅撰和歌集撰集を実現するため、為兼と相談の上、仕組んだものと考えられている。もちろん京極為兼単独で撰集する形がベストであったが、為兼は和歌宗家の御子左家庶流の一人であり、単独での撰者とするには無理があった。そこで和歌宗家の御子左家嫡流の二条為世を撰者の筆頭に立てながら、為兼とともに、当時、歌道の長老であった飛鳥井雅有、九条隆博の二名も撰者に加えることによって二条為世の動きを封じ込め、伏見天皇、為兼の思うような和歌集を作りあげようと考えたものとみられる。実際、天皇の諮問についての為兼、為世の対立点は全て為兼の意見が通っていることや、諮問後即座に勅撰和歌集撰集の綸旨が下されたことからもそのように推察できる[15]

しかしこの時の勅撰和歌集撰集の綸旨は実ることがなかった。まず応製百首詠進の勅命が下されることはなかった。これは永仁期頃は京極為兼が主導する京極派の和歌の実力が低く、応製百首の実現に堪えられなかったのではとの説と、百首詠進の命を下す手続きに手間取っているうちに機を逸してしまったのではとの説がある[16]。また歌道家の間では為兼に対する批判が高まっており、永仁3年(1297年)には、京極為兼の和歌を痛烈に批判した歌論書、『野守鏡』が書かれた[4]

そうこうしているうちに、永仁4年5月15日(1296年6月17日)、京極為兼は権中納言を辞任して籠居し、永仁6年1月7日(1298年2月20日)六波羅探題により拘引された。そして永仁6年3月16日(1298年4月28日)には佐渡島遠流となった。勅撰和歌集編纂の中核を担うべき京極為兼の失脚、流罪とともに、永仁6年には撰者の一人、九条隆博が亡くなり、また為兼の後ろ盾であった伏見天皇が譲位して後伏見天皇が即位し、それに伴い皇太子は大覚寺統の後宇多上皇の皇子である邦治親王となった。これにより持明院統から大覚寺統に政権が交代することは既定路線となった。そして正安3年(1301年)には後伏見天皇が譲位し、伏見上皇は治天の君の座を離れて大覚寺統の世となり、同年には撰者の飛鳥井雅有が亡くなった。こうして永仁勅撰は挫折を余儀なくされた[17]

永仁勅撰の議は挫折を余儀なくされたが、もしこの時、伏見天皇と京極為兼のもくろみ通りの勅撰和歌集撰集に成功したとしても、当時の為兼や伏見天皇の和歌の水準はまだまだ未熟であり、これまでの勅撰集とさして変わり映えがしないか、むしろただ伝統を破壊しただけの中途半端なものに終わったと考えられる。流罪となった京極為兼、そして治天の君の座を離れた伏見上皇を中心として、妃の永福門院ら、為兼の歌風を信奉する持明院統宮廷グループは、再起を期して和歌の研鑽を深めていった[18]
雌伏の時に結実した京極派和歌

永仁6年(1298年)に京極為兼が佐渡に流刑になり、伏見天皇の譲位と後伏見天皇の即位、そして大覚寺統の邦治親王が皇太子となり、大覚寺統に政権が交代する流れとなった。これまで順調であった持明院統にとって試練の時代が始まったが、和歌の革新を主導していた為兼の不在にもかかわらず、伏見上皇、永福門院を中心とした宮廷グループは頻繁に歌合を催し、為兼の主張した「心の絶対的尊重」、「言葉の完全な自由化」という理念に基づく和歌の完成を目指した。佐渡に流刑中の為兼も、京都で行われた持明院統宮廷グループの歌合記録の送付を受け、批評を行っていたと考えられている。伏見上皇、永福門院を中心とした持明院統宮廷グループは、上皇、女院以外は少数の廷臣と女房のみで構成された閉鎖的なグループであり、不遇の時期、閉鎖的な少人数間の切磋琢磨によって京極派の歌風は次第に磨かれていくことになる[19]

正安3年(1301年)には、後伏見天皇の譲位、後二条天皇の践祚により、大覚寺統の後宇多上皇が治天の君となった。その後、持明院統、大覚寺統は後二条天皇の皇太子を誰にするかで争い、双方とも鎌倉幕府に激しく働きかけたが、幕府は持明院統の後伏見天皇の弟である富仁親王を選び、皇太子となった。政権を失った伏見上皇らは持明院統の人たちは、富仁親王の即位、政権の座への復帰を目指すことになる[20]

乾元2年(1303年)閏4月、鎌倉幕府の赦免により、京極為兼は流刑地の佐渡から京へ戻った[21]


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