玉置神社
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玉置神社

本社本殿
所在地奈良県吉野郡
十津川村玉置川1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度55分29秒 東経135度49分48秒 / 北緯33.924744度 東経135.829973度 / 33.924744; 135.829973座標: 北緯33度55分29秒 東経135度49分48秒 / 北緯33.924744度 東経135.829973度 / 33.924744; 135.829973
主祭神国之常立神
伊弉諾尊
伊弉冊尊
天照大神
神日本磐余彦命
社格等旧郷社
創建伝崇神天皇61年(紀元前37年
本殿の様式入母屋造
例祭■例大祭 10月24日
■三柱社例祭(初午祭)3月初午の日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}玉置神社
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玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社大峰山系霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。

社務所および台所[1]、梵鐘[2]は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物[3]2004年7月に登録されたユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部[4]
祭神

本社本殿
[5] - 国之常立神伊弉諾尊伊弉冊尊天照大神神日本磐余彦命

摂社三柱社 - 倉稲魂神・天御柱神・国御柱神

末社若宮社 - 住吉大神八幡大神春日大神

末社神武社 - 迦具土神・速玉男神・高倉下神

末社玉石社 - 大巳貴命

末社白山社 - 菊理媛神

末社山之社 - 大山祇神

大日堂社 - 役小角

境内
本社本殿

桁行3・梁間3間、入母屋造の建物で、新造・修覆あわせて数枚の棟札が残るが、様式から寛政6年(1794年)の再建と見られている[6]
摂末社

三柱神社
[7]

若宮社

神武社

玉石社

白山社

その他

社務所及び台所(
後述

神楽殿[8]

絵馬殿

鐘楼

石造宝篋印塔 1基

地蔵石仏 2体

歴史

社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ[9]、古来より十津川郷の鎮守であった[10]。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である[11]。『玉置山縁起』をはじめとする社伝は、玉置山山頂近くに露頭する玉石を神体とする末社玉石社を玉置の称の由来とし、地主神または奥の院と位置づけており、山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考えられている[9]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この玉石社では大己貴命が祀られており、同社には社殿・祠の類は無く、白い玉石群に囲まれ、地中からわずかに一部が露出している黒い丸石を御神体としている。この黒い丸石の地表に出ているのは、この石のごく一部分に過ぎず、その地中に隠れている部分は測り知れないほどの大きさであるともいわれており、神武天皇神武東征の折、この石の上に神宝を置いて勝利を祈ったとされる。また役行者竜王の脳から出た宝珠を、あるいは弘法大師(空海)が自分の宝珠を、この玉石群の下に埋め祀ったといわれている。[要出典][12]

玉置山熊野三山の奥の院と称するのは江戸時代中期頃に初見され、寛政年間の玉置山別当高牟婁院宛沙汰書は「玉置山之儀熊野三山奥院格別の由緒ニ付」と記し、『紀伊続風土記』は熊野本宮に玉置神社の遥拝所があったと伝える[13]神仏習合の後には、不動堂や大日堂を中心とする修験霊場となり、多数の塔頭社坊が営まれた[14]。社殿や祭神には時期により異同があり、今日にない社殿や、今日と社殿を異にする祭神も見られる[15]

鎌倉時代の寺社縁起『諸山縁起』に「玉木宿」とあるほか、『金峯山本縁起』に挙げられる百二十宿の中に「玉水宿」の名で記され[6]室町時代には入峯の宿となった[14]。大峯・金峯・熊野を結節する要地として順峯・逆峯のいずれの大峯奥駈行においても重視され、その過程において社寺としてのかたちを得たと考えられる[16]。江戸時代の聖護院門跡の大峯奥駈行においては峯中結願所として終点になっていた[17]

慶長年間の頃、社坊の一つ笹坊が、戦乱に乗じて十津川郷で恣意的な徴税を行ったところ、十津川の住人の訴えにより江戸幕府の聞き及ぶところとなり、笹坊とその共謀者は追放され、笹坊の所領は幕府に差し押さえられた。その後、元禄年間に至って社堂造営のため笹坊の旧所領の山林を伐材して財源とすることを試みたが、口添えする本寺がないため幕府に許されず、元禄4年(1691年)、安井門跡を本寺として頼み込んで造営を成し遂げた[18]。以来、安井門跡の支配下に入ったが、別当が神領の立木を乱伐する旨が聖護院の関心をひき、門跡入峯の際の要衝を保護するため、享保12年(1727年)からは聖護院門跡が玉置山を支配下におさめた[19]。社家・神職と社僧の間には長きに渡って確執があったが、このように相次いで有力な門跡の支配下に入ったことにより、社僧が優位に立った[19][20]


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