玉米氏
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由利十二頭(ゆりじゅうにとう)は、日本戦国時代出羽国由利郡の各地に存在し一揆結合の形をとっていた豪族の総称。この時代の由利郡には戦国大名と呼べるほどの勢力は存在せず、秋田郡安東氏雄勝郡小野寺氏庄内地方大宝寺氏最上郡最上氏らの間にあって離合集散し、ときに一揆を結び対抗した。

主に矢島氏仁賀保氏赤尾津氏潟保氏打越氏子吉氏下村氏玉米氏鮎川氏石沢氏滝沢氏岩屋氏羽川氏芹田氏沓沢氏などで、「十二頭」とは少なくとも天正年間以来の呼称であり、史料により数え方が異なる。十二という数字は鳥海山本地である薬師如来の眷属である「十二神将」をなぞったものとする見解がある[1]。また、沓沢氏は独立勢力ではなく矢島氏の客将とする後世史料もあるなど明確に十二頭の範囲を定めることは困難である。
目次

1 前史

2 戦国期

3 諸家概要

3.1 矢島氏

3.2 仁賀保氏

3.3 赤尾津氏

3.4 潟保氏

3.5 打越氏

3.6 子吉氏

3.7 下村氏

3.8 玉米氏

3.9 鮎川氏

3.10 石沢氏

3.11 滝沢氏

3.12 岩屋氏

3.13 羽川氏

3.14 芹田氏

3.15 沓沢氏

3.16 禰々井氏(根井氏)


4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

前史

鎌倉時代以前の由利地方は由利氏が支配しており、奥州藤原氏滅亡後も本領を安堵されていたが、由利維平の子の維久は和田合戦に連座し所領を没収された。この子孫は土着し滝沢氏と称した。その後、地頭職は源実朝の養育係である大弐局に移り、更にその甥大井朝光に譲られたと『吾妻鏡』に見える。軍記物には、由利十二頭は室町幕府の命を受けて1467年応仁元年)北出羽に下向した小笠原一族の子孫と記述されているが、大弐局が所領を賜った1213年建保元年)が由利地方と小笠原氏との関係の始まりと言える。

しかし、大井氏霜月騒動安達氏に連座し所領は北条氏に渡り小早川氏が地頭代となったと考えられており、南北朝時代には楠木氏新田氏との関係を指し示す史料もあるが、この間の経緯は史料不足により、よく分かっていない。いずれ、十二頭と呼ばれた国人層のうち生え抜きの滝沢氏を除くほとんどが信濃小笠原氏庶流の大井氏(源姓)の庶流を称していることから、鎌倉時代から室町時代にかけて清和源氏義光信濃源氏との深い関係が推定されているのみである。彼らの移住について「十二頭記」には、「正平以後、由利主宰なきこと数十歳、隣冦侵略、盗賊縦横、土人これに苦む、応仁元年鎌倉に訴え、地頭を置んと請う。」とあるが、応仁元年(1467年)では、鎌倉幕府はすでになく[2]鎌倉府も下総国古河に遷座している。
戦国期

由利郡は先述のとおり、安東氏、小野寺氏、大宝寺氏、最上氏らの間にあったが、それぞれの勢力が領域支配を確立してくると、これらの影響により各勢力に属し相争うようになった。

特に比較的大きな勢力であった仁賀保氏と矢島氏は長年にわたり幾度も合戦を繰り返した。仁賀保氏と滝沢氏は大宝寺氏や安東氏と結び、小野寺氏と結んだ矢島氏と対立した。一時は十二頭ほぼ大宝寺氏の傘下に入り安東氏や小野寺氏に対したが、大宝寺氏の衰退とともに最上氏の影響が強まった。1588年天正16年)には本庄繁長により最上氏が敗れ、本庄氏傘下の大宝寺義勝の配下となったが、同年の湊合戦においては一致して安東氏の内紛に際し一方に味方するなど、独自の行動も見受けられる[3]

豊臣秀吉の天下統一に際しては、由利十二頭は由利衆として仁賀保氏、赤尾津氏(小介川氏)、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、下村氏、石沢氏、禰々井氏が、1591年1月19日(天正18年12月24日 (旧暦))にそれぞれ知行を安堵された[4]。このうち、前五者を特に「由利五人衆」と呼んだ[4]。由利衆は、豊臣政権により安東氏の秋田実季のもと「隣郡之衆」として材木切り出し及び廻漕の軍役を負担させられた一方で[5]、五人衆は文禄の役では大谷吉継の指揮下に入り[6]関ヶ原の戦いでは秋田実季と行動を共にしている[7]江戸時代に入ると仁賀保氏、打越氏が幕臣に、滝沢氏、岩谷氏、石沢氏が最上氏家臣になり、赤尾津氏は改易された[8]。最終的には仁賀保氏が大坂の役での功績により仁賀保藩(分家により旗本となる)を創設し、領主としての地位を保った。
諸家概要

諸党は海岸の平野部に発展した集落と、子吉川流域に沿って発展した集落を根拠地にして、それぞれの在地をとって氏としていた。
矢島氏

由利郡矢島(現・由利本荘市矢島町)付近を中心に勢力があった武士団。先祖は大井田氏と称したが、大江氏とする文献もある。仁賀保氏とは近い同族関係にあったが、一族内の主導権争いから終始敵対した。小野寺氏と連携して仁賀保氏と争い、四代続けて当主を討ち取るなど宿敵の関係にあった。軍記物の記述では文禄の役の際の領国の混乱に乗じて仁賀保氏に滅ぼされたことになっているが、惣無事令に反するため私闘は不可能であり、豊臣秀吉の奥州仕置に矢島氏の名が見えないことなどから、1588年天正16年)ころの出来事ではないかとする見解がある。
仁賀保氏「仁賀保藩」も参照

由利郡仁賀保(現・にかほ市平沢)付近を中心に勢力があった武士団。先祖は大井氏と称したが家紋通字からは大江氏との関係が指摘されている。所領とした仁賀保は、平沢、象潟地方の総称である。矢島氏とは近い同族関係にあったが、一族内の主導権争いから終始敵対し、滝沢氏と組み、地理的な要因から主に大宝寺氏の影響下にあり、小野寺氏と結んだ矢島氏と争った。赤尾津氏から養子に入った仁賀保挙誠の代に豊臣秀吉により由利地方で2番目に大身の3,716石の所領を安堵された[4]。なお、軍記物の記述では文禄の役の際の領国の混乱に乗じて矢島氏を滅ぼしたことになっているが、惣無事令に反するため私闘は不可能であり、1588年(天正16年)ころの出来事ではないかとする見解がある。関ヶ原後に加増され常陸国武田5,000石となり、更に大坂の役での功績により旧領に戻り一万石の仁賀保藩を立てた。挙誠死後、分家により3家に分かれ、それぞれ旗本となった。
赤尾津氏

由利郡赤尾津(現・由利本荘市松ヶ崎岩城亀田)付近を中心に勢力があった武士団。


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