玉砕
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玉砕(ぎょくさい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:玉碎)は、のように美しく砕け散ること、指導層が提唱する大義名誉などに殉じて潔く死ぬこと[1]大東亜戦争の前線で日本軍部隊が殲滅[注釈 1]されたことを表現する言葉として大本営発表で用いられた。対義語は、瓦全(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為に生き永らえること[2]。中国の古書『北斉書』の「元景安伝」中の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(勇士は瓦として無事に生き延びるより、むしろ玉となって砕けた方が良い)」を語源とする。
由来

「玉砕」、「瓦全」という言葉は、代に編纂された東魏(534?550年)から北斉(550?577年)にかけての歴史を記した正史『北斉書』の列伝第三十三(元景安)に見える[3][4]。同書によれば、故事は以下のとおりである。

元景皓と元景安は、北魏の帝室「」氏の血を引くいとこ同士であった(「景」が輩行字)。北魏が滅び、高洋が即位して北斉を建てると、「元」氏一族の多くは虐殺された。しかし、いち早く帰順し、武功を立てた景安は、北斉の帝室と同じ「高」姓を賜って北斉に仕えることを許された。「元」氏一族は、景安のように「高」姓を賜って生き永らえたいものだと話し合った。景皓は言った。「豈得棄本宗、逐他姓。大丈夫寧可玉砕、不能瓦全。」(どうして本来の宗族を捨て、別の姓を追い求めることができようか。立派な男子は、玉が砕けるように名誉・尊厳を保持したまま死ぬべきであり、名誉・尊厳を失ってのようなつまらないものとして一生を全うすることはできない。)と。景安がこの言葉を顕祖(高洋)に報告したところ、景皓はたちまち捕らえられて殺され、家族は彭城に移住させられた。景安だけが「高」姓を賜ったのはこのためである。

「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全。」は、「大丈夫はむしろ玉砕すべきも、瓦全するあたはず。」と書き下す。「大丈夫」は「立派な男子」という意味であり[5]、「寧」は比較・選択の意味の助字である[6]。立派な男子は「瓦全」するわけにはいかず、むしろ「玉砕」すべきであるという意味になる。

西郷隆盛はこの故事を踏まえて次の詩を書いた。幾歴辛酸志始堅(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し)
丈夫玉砕恥甎全(丈夫は玉砕すとも甎全を恥ず)

また、1886年明治19年)発表の軍歌敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)には以下の歌詞がある。敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや
の上にて死ぬ事は 武士のなすべきならず
大東亜戦争
背景

玉砕の発生について、しばしば「戦陣訓」と呼ばれる1941年1月8日陸軍大臣東條英機の示達による訓令(陸訓一号)の中にある一節「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉との関係がよく指摘されるが、本来この「戦陣訓」は精神訓話であった。

ところが実際には、昭和に入った頃から、捕虜となるくらいであれば戦死ないし自決せねばならないような感覚が強まっていたともいわれる[7]。本来、将兵は上官の命に背いて勝手に自身の判断で降伏や撤退をすることは出来ず、やむをえない場合であっても権限や上官の許可なくこれらを行うときは自己の責任で行う外ない。敵前で勝手にこれらを行えば最高刑は死刑となる抗命罪に問われる可能性があった[8]。日本軍ではそれまで敗戦の経験があまりないため、いったん負け戦となると、上官らの面子や国民への敗戦隠蔽のために自決・玉砕が強いられた面も否めない[9]。既に1939年のノモンハン事件では、前線で撤退した部隊の将校の多くが、その後自決を強要されたとされている[10][9]。また、ソ連軍に捕らえられ後に日本側に返還された捕虜も、負け戦の隠蔽のために、将校らは自決を強いられ、下士官・兵卒らは何らかの処分を受けて中には日本に戻されず、以降の消息が聞かれなくなった者も多かったとされる[7][11]。この頃は、まだ「戦陣訓」は出されていない。

しかし、むしろこのような雰囲気であったからこそ、後に出された「戦陣訓」の一節が、将兵が投降せずに玉砕や自決を強いられることや、動けない傷病兵を殺害し始末することの正当化に使われ、これらを一般化させることにつながったとも言われる[12]。サイパンや沖縄戦における民間人住民の集団自決の発生もこの戦陣訓が背景になったとも言われている[12]
「玉砕」の始まり.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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大東亜戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年アッツ島玉砕である。

しかし、軍隊内での文章などではアッツ島玉砕以前より「玉砕」の使用例が見られる。例えば、1942年昭和17年)2月第一次バターン半島の戦いでは、木村部隊から師団司令部へ「第一大隊ハ玉砕セントス」との電文が送られている[13]。また、公刊戦史上は、1942年昭和17年)12月8日ニューギニア戦線ゴナにおけるバサブア守備隊の玉砕を記録、続く連合軍攻勢により、1943年昭和18年)1月2日には同じニューギニア戦線でブナの陸海軍守備隊が玉砕したが、これらが国民に知らされたのは1944年(昭和19年)2月以降であった。

1943年(昭和18年)5月29日アッツ島の日本軍守備隊が全滅した。このとき、その約1週間前の5月23日に上級の北方軍司令官樋口中将は、アッツ島守備隊に「最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」との電文を送って「玉砕」を要請、その結果、守備隊は負傷兵らを始末した上で敵に突撃、そのほとんどが戦死ないし自決した[14]。「アッツ島玉砕」では守備隊2,650名のうち、わずか29名が捕虜になっただけである。そのときの大本営発表は以下の通り:大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なるに対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。

大本営発表として初めて「玉砕」の表現が使用された[15]。これは「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くして「玉の如くに清く砕け散った」と印象付けようと意図したものであった。また補給路を絶たれて守備隊への効果的な援軍や補給ができないまま、結果的に「見殺し」にしてしまった軍上層部への責任論を回避させるものであった(防衛省に残る「北海守備隊作戦経過報告書」には、守備隊が歩兵1500人の増援と武器・弾薬・食糧等の補給を要請していたことが記録されているが、大本営は、守備隊長は「一兵の増援も要求せず、一発の弾薬の補給をも願わなかった」と発表している[15]。)。このとき美化して大々的に国民に発表されたことが、その後の南方戦線で戦いに成算がなくなれば、最後は部隊は「玉砕」することが強いられる流れを決定づけたともされる[16]


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