日本の政治家玉城 デニーたまき デニー
文部科学省より公表された肖像
生年月日 (1959-10-13) 1959年10月13日(64歳)
出生地沖縄統治下 中頭郡与那城村
(現・ 日本 沖縄県うるま市)
出身校上智社会福祉専門学校卒業
前職タレント
所属政党(無所属→)
(民主党→)
(国民の生活が第一→)
(日本未来の党→)
(生活の党→)
(生活の党と山本太郎となかまたち→)
(自由党→)
無所属
公式サイト沖縄県知事 玉城デニー OFFICIAL WEBSITE
玉城 デニー(たまき デニー、1959年〈昭和34年〉10月13日 - )は、日本の政治家、タレント。沖縄県知事(公選第8代)。本名は玉城 康裕(たまき やすひろ)[2][3][4]。
衆議院議員(4期)、自由党幹事長兼国会対策委員長、沖縄市議会議員(1期)などを歴任した[5][6]。なお、知事業務上、法的効果を伴う行政文書には本名を使用している[7]。
来歴沖縄科学技術大学院大学で武正公一とともに見学
米国統治下の沖縄、中頭郡与那城村(現・沖縄県うるま市)出身[8]。沖縄の米軍基地に駐留していた米兵の父と伊江島出身の母の間に生まれたアメラジアンである[9]。父の母国である米国に渡航することを前提に母親から「デニス(Dennis)」と名付けられるが、結局母は先に帰国した夫を追うことはなかった。小学校4年生のときに家庭裁判所に申し出て、「康裕(やすひろ)」に改名した。「デニー(Denny)」は子供の頃からの愛称であった[2]。母親は「基地特需」で沸く沖縄において、生活費を稼ぐために住み込みで働く。そのため玉城は10歳まで母親の友人宅に預けられ、そこで育った[10]。
与那城村教育区立与那城小学校、与勝事務組合立与勝第二中学校、沖縄県立前原高等学校、上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)卒業[11]。福祉関係の臨時職員、インテリア内装業、音響関係の会社勤務などを経て、30歳のときにタレントとして独立。琉球放送ラジオ(現在のRBCiラジオ)の人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティや[12]、1998年7月にスタートした沖縄市エフエムコミュニティ放送の「OKINAWAミュージック・タペストリー」の総合プロデュースとパーソナリティ[13]、イベントの司会などを務めた。ラジオでは沖縄語を駆使し、高齢者から絶大な支持を受けた[14]。
2001年12月、周囲から翌年4月に控えた沖縄市長選挙[15]への立候補を促される。選挙も政治も何もわからなかった玉城は琉球放送の職員に相談したところ、嗅ぎ付けた新聞社に翌日の朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と記事にされてしまう。当時玉城は月曜日から金曜日まで午前9時から11時までの帯番組「玉城デニーのすまいるスタジオ」を担当していたが、その日で番組を降りることになった。母親からは「人の口車に乗って馬鹿だね」と言われ、鬱々とした日々を送る[2]。
2002年5月に一念発起し、その年の9月の沖縄市議会議員選挙への立候補を決意[2]。史上最多得票でトップ当選を果たした[16]。2004年6月には下地幹郎らが旗揚げした政策集団「そうぞう」に参加した[17](後に「そうぞう」が政策集団から政党そうぞうに改組された際は参加せず)。 2005年8月、衆院選に立候補するため任期途中で市議を辞職[11]。同年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙に、沖縄3区から民主党公認で立候補するも得票率3位で落選。 2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に、沖縄3区から民主党公認で再び立候補。自民党前職の嘉数知賢を破り、初当選した。民主党では沖縄県第3区総支部長、沖縄県総支部連合会副代表などを務めた[11]。 2010年6月2日、鳩山由紀夫が民主党代表と首相辞任を表明[18]。鳩山の辞任に伴う代表選挙(6月4日投開票)では樽床伸二の推薦人に名を連ねた[19]。 2011年2月19日に行われた民主党沖縄県連の代表選に立候補するも、党本部の「小沢対非小沢」の対立が波及したことにより新垣安弘県議に敗れる[20]。 2012年の消費増税をめぐる政局では、野田内閣による消費増税法案の閣議決定に抗議して党広報副委員長の辞表を提出し、4月23日の党役員会で受理された[21]。6月26日の衆議院本会議で行われた消費増税法案の採決では、党の賛成方針に反して反対票を投じた[22][23]。7月2日には山岡賢次らを介して離党届が提出された[24][25][26]。民主党は7月3日の常任幹事会で離党届を受理せず除籍処分とする方針を決定し[27][28][29][30][31]、7月9日の常任幹事会で正式決定した[32][33][34]。同年7月11日、造反議員らを中心に国民の生活が第一が結党され、玉城もこれに参加した[35]。なお、もうひとりの民主党沖縄県連所属国会議員である瑞慶覧長敏も同年に離党して無所属となり(その後落選)、これ以降県連は国会に議席を有していない。 同年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める日本未来の党の候補として沖縄3区から立候補。自民党新人の比嘉奈津美に敗れたが、比例九州ブロックで復活当選した。公明党比例区順位4位の新福愛子
衆議院議員選挙に立候補
2014年の第47回衆議院議員総選挙では、翁長雄志沖縄県知事が推薦する「オール沖縄」の候補として生活の党公認で沖縄3区から立候補。日本共産党、社会民主党、沖縄社会大衆党、緑の党そして基地の県内移設に反対して自民党を除名された「新風会」の支援を受け[要出典]、自民党前職の比嘉(比例九州ブロック復活当選)を破り、議席を取り戻した。
2017年の第48回衆議院議員総選挙では、希望の党が結党されると自由党の多数の候補者は合流に向かった。しかし玉城は「希望の党と私の考えは水と油。無所属で普天間飛行場移設反対の公約を貫く」として党籍を残したまま無所属で立候補[39][40]。比嘉に比例復活も許さず破り、4期目の当選を果たした。
2017年11月1日に行われた第195回衆議院本会議での内閣総理大臣指名選挙では枝野幸男に投票した[41]。
2018年12月15日には政府による米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設工事が進められている米軍キャンプ・シュワブのゲート前で続く抗議活動の現場を訪れ、県民を激励した[42]。 2018年8月17日、故翁長雄志知事が生前に玉城と金秀グループ会長の呉屋守將を後継指名していたことが判明。8月18日までに呉屋が立候補を固辞すると[43]、8月19日、翁長を支えてきた県政与党や団体でつくる「調整会議」は玉城の擁立を目指す方針を固めた[44]。8月28日、玉城は立憲民主党の枝野幸男代表、国民民主党の大塚耕平共同代表、日本共産党の志位和夫委員長、社民党の又市征治党首、無所属の会の岡田克也代表らと会談。野党5党派は支援を確約し[45]、8月29日、玉城は翁長の死去に伴う知事選挙への出馬を正式に表明した[46]。 基地問題については「故・翁長知事の遺志を受け継ぎ、辺野古に新たな基地は造らせない。普天間飛行場の閉鎖・返還を一日も早く実現するよう政府に強く要求する」とした[47]。また、子どもの貧困対策を最重要政策に掲げ、「保育料の無料化」、「子ども医療費無料化の拡大」、「待機児童ゼロ」、「子育て世代包括支援センターの全市町村への設置」などを掲げた[47]。
沖縄県知事選挙