玉ノ富士茂
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玉ノ富士 茂

基礎情報
四股名玉ノ富士 茂
本名大野 茂
(旧姓:阿久津)
生年月日
1949年11月24日[1]
没年月日 (2021-06-21) 2021年6月21日(71歳没)
出身栃木県那須郡小川町
(現在の栃木県那須郡那珂川町
身長185cm
体重127kg
BMI37.11
所属部屋片男波部屋
得意技右四つ・寄り・上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴431勝420敗35休(73場所)
幕内戦歴289勝326敗(41場所)
優勝序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞2回
データ
初土俵1967年5月場所[1]
入幕1974年9月場所[1]
引退1981年11月場所[1]
引退後片男波部屋 師匠
他の活動日本相撲協会 理事(1期)
2012年2月 - 2014年4月
備考
金星2個(北の湖1個、三重ノ海1個)
2021年6月24日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

玉ノ富士 茂(たまのふじ しげる、1949年11月24日 - 2021年6月21日)は、栃木県那須郡小川町出身で片男波部屋所属の元大相撲力士。本名は大野 茂(旧姓は阿久津)。身長185cm、体重127kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ割り出し。最高位は東関脇1978年3月場所 - 7月場所、1979年1月場所 - 3月場所)。現役引退後は、1987年9月から2010年2月まで片男波部屋の師匠を、2012年2月から2014年4月まで日本相撲協会理事を1期務めた。
来歴

東京の関東高校バスケットボールの選手として活躍するも、3年途中で中退して片男波部屋に入門し、1967年5月場所に初土俵を踏む。序ノ口に付いてすぐに6勝1敗と好成績を残したものの、この成績に不満を感じて相撲に見切りを付けた玉ノ富士は場所直後に部屋を脱走。自身の将来を案じたこともあって翌1968年に志願して陸上自衛隊に入隊[2]一等陸士まで昇進し満期除隊した[1]。その他にも味噌工場、トンネル工事、ビル建設など幾つかのアルバイトを経験した後に師匠・12代片男波(元関脇・玉乃海)の許しを得て片男波部屋に再入門。1970年9月場所に再び番付外から取り直した。玉ノ富士の廃業届は1968年5月に一度提出されて受理されており、本来であれば相撲協会の一度離籍した人間の復帰を認めない規定に反するが、当時はおおらかであったため再入門が許されたという[3]。死去の際には、再入門が認められたのは詳細な規定が無かったためと解説されている[4]。なお、師匠・玉乃海も一旦角界を離れ(こちらは除名)、軍隊経験の後に再入門した異色の経歴の持ち主だった。

その後は順調に番付を上げて行き、1973年11月場所に十両に昇進。1974年9月場所には新入幕を果たした。上位との壁に苦しんだが、1977年後半から三役に定着し、1978年1月には11勝4敗の好成績を挙げた上に4大関を倒したことが評価され、敢闘賞を受賞。この時期の玉ノ富士は「大関より強い関脇」として話題になっていた[5]同年3月場所からの7場所間に、小結を1場所挟んで関脇を計6場所勤めた。1978年11月場所12日目の輪島戦はNHK大相撲中継の視聴率が37.1%を記録しており、これは11月場所のものとしては2019年5月場所終了時点で6位タイである(ビデオリサーチ調べ)[6]。右四つ相撲で前褌を取ると力を発揮し、大関昇進も期待されたが、立合いが遅く糖尿病も患ったため昇進出来なかった[1]。次第に引く相撲が多くなり幕内下位に低迷。1981年5月場所を最後に十両に陥落し、同年11月場所を最後に現役を引退した。年寄・湊川を襲名し、部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、1987年に12代片男波が死去したため片男波部屋を継承し、関脇玉春日玉乃島前頭玉海力玉力道らを育てている。自衛隊に入隊していた自身の経歴を踏まえ「一つの社会で我慢することを覚えさせたい。相撲界に限らず、どの社会でも頑張り通せば結果が付いてくる」と考えて弟子を育成していた[7]。現役時代にわずらった糖尿病は引退後に重篤な段階まで悪化し、2000年7月場所を休場して片足の切断手術を受けた[8]2010年2月に弟子の玉春日に部屋を譲り、年寄・楯山として部屋付き親方となった。

2012年の改選で理事に当選し、九州場所担当部長に就任。1期務めた後、2014年の改選では、停年(定年に相当する日本相撲協会の制度)間近のため立候補せず、役員待遇に退いた。同年10月の時点の記事では「60歳で部屋を譲ったが、関取が一度も途切れなかったことが良かったことです。今の片男波がしっかりやってくれるので安心して退職できます」とコメントしており、停年親方の再雇用制度が正式導入される前であったことから再雇用されるかどうかという話題はまだ出ていなかった[5]。同年11月23日限りで満65歳の停年退職となり、従来の規定であれば相撲協会を離れて市井の人となるところだったが、定年直前に決まった停年親方の再雇用制度[9]の適用第1号となり、12月6日付で再雇用された[10]。再雇用任期満了前の2019年4月25日に退職した[11]。なお、既に再雇用時点で協会の業務を満足に行える体調ではなかったため、一部からは「再雇用を利用しなくても厚生年金があるのになぜ?」という批判もあった。

2021年6月21日に肝臓がんのため大分県内の病院で死去。71歳没[4]。葬儀・告別式は家族葬にて執り行われた[12]
エピソード

貴ノ花に対しては強く12勝11敗と勝ち越している。1978年1月場所から7月場所にかけては4連勝もした。同じ大関の旭國には6勝11敗で、1977年11月場所まで1勝8敗(1勝は不戦勝で、実質の勝利は無し)と全く勝てなかったが、上位に定着し出した1978年1月場所から1979年9月場所まで5勝3敗と勝ち越している。大関には互角以上に渡り合ったが横綱には分が悪く特に北の湖には初顔から19連敗、4年近く勝てなかったが1979年9月場所でようやく初勝利を挙げた。最終的な対戦成績は2勝23敗。停年直前の時期の記事では対北の湖戦での初勝利を思い出の一番として挙げている[5]。また2代若乃花にも分が悪く、最終的な対戦成績は3勝23敗で、横綱昇進後の若乃花には1度も勝つことが出来なかった。

浮世絵から抜き出てきたような風貌や掴みどころのない性格を由来として「関取退屈男」の異名を冠していた。ある時大関取りの話題を記者に言及された際、「大関候補なんか他にも強い人がたくさんいるから駄目だよ」と話していた。掴みどころのない人物ではあるが「歯触りにつかみどころがない」という理由でが嫌いであるという。

主な成績

通算成績:431勝420敗35休
[13] 勝率.506

幕内成績:289勝326敗 勝率.470

現役在位:73場所

幕内在位:41場所

三役在位:12場所 (関脇6場所、小結6場所)

三賞:3回

殊勲賞:1回(1979年9月場所)

敢闘賞:2回(1978年1月場所、1979年11月場所)


金星:2個(北の湖1個、三重ノ海1個)

各段優勝

序二段優勝:1回(1971年1月場所)

序ノ口優勝:1回(1970年11月場所)


対横綱戦:7勝58敗(輪島4勝、北の湖2勝、三重ノ海1勝)*輪島の1勝は不戦勝

対大関戦:28勝42敗(貴ノ花12勝、三重ノ海・旭國6勝、魁傑2勝、若三杉増位山1勝)


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