玉の海正洋
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玉の海 正洋


基礎情報
四股名玉乃嶋 正夫 → 玉乃島 正夫 →玉の海 正洋
本名谷口正夫→竹内正夫
愛称悲劇の横綱
現代っ子横綱[注 1]
生年月日1944年2月5日
没年月日 (1971-10-11) 1971年10月11日(27歳没)
出身愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市
身長177cm
体重135kg
BMI43.09
所属部屋二所ノ関部屋片男波部屋
得意技突っ張り、右四つ、寄り、吊り、上手投げ
成績
現在の番付死去
最高位第51代横綱
生涯戦歴619勝305敗(76場所)
幕内戦歴469勝221敗(46場所)
優勝幕内最高優勝6回
序二段優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞2回
データ
初土俵1959年3月場所[1]
入幕1964年3月場所[1]
引退1971年9月場所(現役中に死亡)[1]
備考
金星4個(栃ノ海2個、佐田の山2個)
2014年3月17日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

玉の海 正洋(たまのうみ まさひろ、1944年昭和19年〉2月5日 - 1971年〈昭和46年〉10月11日)は、大阪府大阪市出生、愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身で片男波部屋(入門時は二所ノ関部屋)に所属した大相撲力士。第51代横綱

本名は谷口正夫、後に竹内正夫(たけうち まさお)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り、上手投げ[1]
来歴

1944年昭和19年)2月5日大阪府大阪市で生まれるが、大阪大空襲で焼け出されて蒲郡に疎開、以降は蒲郡で育つ。谷口家は決して裕福ではない家庭であり、母はほとんど女手一つで正夫少年を含めた4人の子供を育て、針仕事や行商、時には土木作業で家計を支えた。そのような生い立ちが正夫少年に「母ちゃんのために、きっと家を建ててやるからな……」という誓いを立てさせる動機となった[2]蒲郡市立蒲郡中学校時代は柔道で鳴らしており、柔道部の1年先輩にあたる和晃(後に東前頭筆頭まで昇進)を遥かに凌ぐ実力で知られていた。警察官を目指していたが、竹内家の養子となった後、玉乃海太三郎(後の年寄片男波)に勧誘されて二所ノ関部屋に入門。1959年3月場所で初土俵四股名は玉乃嶋。入門時は173cm、67kgの体格であり、玉ノ海梅吉や自身のような腕力を身に付けさせようと、片男波は1日1000回の鉄砲のノルマを課した[3]

幕下時代に片男波の独立騒動が発生した際は片男波について行くことを選んだ。独立が承認された時も、玉乃嶋の素質を高く評価していた二所ノ関からは「どうにか連れて行かず残して欲しい」と言われたこともあるという。

1963年9月場所で新十両に昇進、1964年3月場所で新入幕を果たし、この翌場所に玉乃島と改名する。
出世街道

系統別から部屋別総当たり制となった1965年1月場所の初日には、初対戦となった同門の横綱で兄弟子だった大鵬幸喜と対戦して勝利した(この一番が部屋別総当たり制の定着を決定づけたとも言われる)。また、大関昇進までに栃ノ海晃嘉佐田の山晋松から2個ずつ金星を獲得し、1966年9月場所に関脇で11勝4敗の成績を上げ、ライバルの大関北の冨士勝明(当時)より1場所遅れて大関へ昇進した。

しかし大関昇進後の1年間は1桁勝ち星が続き、1967年3月場所には7勝8敗と負け越しを喫した(当時は「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度だったため、次の同年5月場所は大関角番とならず)。1967年11月場所に11勝4敗と大関初の二桁勝利を果たして以降、終盤まで優勝争いに加わる好成績を挙げるようになり、1968年1月場所では12勝。3月場所は右ひざの負傷で出場が危ぶまれた[4]ものの連続して12勝をあげた。続く5月場所では13勝2敗の成績で、自身念願の幕内初優勝を果たした。場所後に協会は玉乃島の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問し、6人の委員のうち2人(上田英雄御手洗辰雄)は横綱昇進に賛成したが、残る4人は「反対ではないが、今回は待つべき」[5]として、否決された。事前の報道でも「微妙な13勝」「内容に乏しい」と評価されていて[6][注 2]、横綱昇進は時期尚早との見方が強かった。

初顔合わせで勝利した大鵬にはその後も大鵬が「精神的に堅くなった」[7]こともあり、一時は3勝1敗とリードしたが、対戦を重ねるにつれて逆に玉の海(玉乃島)が全く勝てなくなり、1965年9月場所から1969年7月場所までは1不戦勝を挟んで16連敗を喫した(最終対戦成績は玉の海の7勝21敗(うち不戦勝1)。他に優勝決定戦で1勝1敗)。大鵬は「玉の海君に上手さえ取らせなければ、左右どちらの四つでも相撲は取れるし、勝てる」[8]と見ており、実際に玉の海が右四つに組んでも左上手が取れず、逆に大鵬が右の差し手からの寄りや掬い投げで玉の海を圧倒した。また、玉の海の大関時代までは大鵬が離れて相撲を取り、玉の海が懐に飛び込むこともできずに敗れる相撲も多く、地力の差を感じさせる内容となっていた。横綱昇進後も玉の海は大鵬に2度にわたり千秋楽に全勝を止められ、最後まで壁となった。

1969年9月場所に13勝2敗の成績で2度目の優勝を果たしたが、同年11月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で優勝した北の富士と明暗を分ける格好となった。1970年1月場所は一人横綱の大鵬が休場で「(北の富士と玉乃島)二人にとっては優勝と横綱をかけて初場所だ」「四人の大関のなかでだれが優勝してもおかしくない」[9]と予想され、横綱昇進を巡ってはライバルの北の富士は「12勝の準優勝で横綱になれる」と言われ、当の玉乃島に関しては「ともかく13勝をやることだ。過去2回も惜しいところで見送られた実績がある。審議会の中にもこの点で同情している人もいるじゃないか」と救いの手を差し伸べる意見が見られた[10]。この場所は中日までに2敗したため、その時点では綱取りは駄目かと思われたが、残りをすべて勝って13勝2敗とし[10]、北の富士との優勝決定戦には敗れたが、場所後に協会は北の富士・玉乃島2人をともに横審に諮問し、約1時間の審議の末、出席した7委員の満場一致で揃って横綱推薦を決めた[11][注 3]。2場所連続優勝の北の富士は文句なしだったが、玉乃島は横審委員の野間省一から「先場所の10勝がきがかり」との懸念が出て、委員長の舟橋聖一も「わたし自身、三分の二ぐらいに議論が分れると思った」と審議を振り返ったが、大関時代の勝率は北の富士を上回ること、1月場所は北の富士を破って優勝同点に持ち込んだこと、過去二度横綱昇進を見送られているがその時よりも力を付けていること等の理由で高橋義孝御手洗辰雄両委員が玉乃島の安定感を高く評価し、この意見が審議を圧倒した[11][注 4]

二人の横綱昇進によって「北玉時代」[12]の到来といわれた[注 5][1]
横綱昇進

横綱土俵入りは当時から後継者の少なかった「不知火型」を選択、土俵入りの指導は大鵬が務めた[13][注 6]。これ以降、性格が正反対の玉の海と北の富士は親友になり、互いに「北さん」「島ちゃん」と呼び合う間柄になった(「島ちゃん」は玉の海のかつての四股名「玉乃島」に由来する)。

新横綱となった1970年3月場所から、師匠である片男波の現役時代の四股名である「玉の海」を継いで玉の海 正洋と改めた。昇進伝達式では、本来「謹んでお受け致します」と言うべきところを「喜んでお受け致します」と言ってしまい、こうした事例に現れるような明朗快活な性格[1]から当時は「現代っ子横綱」と呼ばれることが多かった。なお、昇進伝達式では「喜んでお受け致します」の続きとして「今後横綱としての体面をけがさぬよう努力いたします」と述べた[14]

横綱昇進以後、横綱3場所目(1970年7月場所)で9勝6敗の他は毎場所優勝を争い、12勝3敗も2場所のみ、1970年9月場所から4場所連続で14勝を挙げ、このうち3度は優勝している。大鵬とは連続して14勝1敗同士の優勝決定戦を行い、大鵬最後の優勝(通算32回目)を許した1971年1月場所には「何のこれしき。(自分が)弱いから負けるんだ」と発言して再起を誓った。地元名古屋での7月場所には夢の全勝優勝を果たし、多くの識者から「まもなく北玉時代から、玉の海独走時代になる」と期待され、双葉山の再来とまで呼ばれるようになる[1]

玉の海の横綱時代の戦績詳細は下記の通りである。また、同時代に横綱を張った北の富士、大鵬の成績も併せて記す。

場所玉の海成績(地位)北の富士成績(地位)大鵬成績(地位)優勝力士備考
1970年3月場所13勝2敗(西横綱)13勝2敗(東横綱)14勝1敗(東張出横綱)大鵬
1970年5月場所12勝3敗(東張出横綱)14勝1敗(西横綱)12勝3敗(東横綱)北の富士
1970年7月場所9勝6敗(東張出横綱)13勝2敗(東横綱)2勝2敗11休(西横綱)北の富士
1970年9月場所14勝1敗(西横綱)11勝4敗(東横綱)12勝3敗(東張出横綱)玉の海
1970年11月場所14勝1敗(東横綱)11勝4敗(東張出横綱)14勝1敗(西横綱)玉の海千秋楽で大鵬(1敗)に敗戦。
優勝決定戦で大鵬に勝利。
1971年1月場所14勝1敗(東横綱)11勝4敗(東張出横綱)14勝1敗(西横綱)大鵬千秋楽で大鵬(1敗)に敗戦。
優勝決定戦も大鵬に敗戦。
1971年3月場所14勝1敗(東横綱)11勝4敗(東張出横綱)12勝3敗(西横綱)玉の海千秋楽で玉の海1敗・大鵬2敗で対戦し勝利。
1971年5月場所13勝2敗(東横綱)15勝0敗(東張出横綱)3勝3敗(西横綱)北の富士千秋楽北の富士全勝・玉の海1敗で対戦し敗戦。
大鵬、5日目に引退を表明。
1971年7月場所15勝0敗(西横綱)8勝7敗(東横綱)-玉の海
1971年9月場所12勝3敗(東横綱)15勝0敗(西横綱)-北の富士


在位10場所間、13勝以上を7場所記録。

1970年9月場所 - 1971年7月場所間、連続6場所勝利数84勝を記録。

1970年9月場所 - 1971年1月場所まで、3場所連続初日から14連勝を記録。

1970年11月場所 - 1971年5月場所まで、4場所連続優勝圏内千秋楽結びの一番出場(対戦相手:大鵬3回、北の富士1回)。

ライバル・北の富士との対戦

北の富士との対戦は1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。

場所対戦日北の富士勝敗
(通算成績)玉の海勝敗
(通算成績)優勝力士備考
1964年5月場所千秋楽●(0)○(1)栃ノ海初対戦
1964年7月場所---富士錦取り組みが組まれず対戦なし。
1964年9月場所7日目●(0)○(2)大鵬
1964年11月場所4日目○(1)●(2)大鵬
1965年1月場所14日目○(2)●(2)佐田の山
1965年3月場所13日目●(2)○(3)大鵬
1965年5月場所8日目○(3)●(3)佐田の山
1965年7月場所11日目○(4)●(3)大鵬
1965年9月場所3日目●(4)○(4)柏戸
1965年11月場所9日目●(4)○(5)大鵬
1966年1月場所---柏戸取り組みが組まれず対戦なし。
1966年3月場所2日目●(4)○(6)大鵬
1966年5月場所14日目●(4)○(7)大鵬
1966年7月場所千秋楽○(5)●(7)大鵬
1966年9月場所千秋楽●(5)○(8)大鵬北の富士大関昇進
1966年11月場所11日目●(5)○(9)大鵬玉乃島大関昇進
1967年1月場所11日目○(6)●(9)大鵬
1967年3月場所10日目○(7)●(9)北の富士(1)北の富士初優勝
1967年5月場所12日目○(8)●(9)大鵬
1967年7月場所千秋楽○(9)●(9)柏戸
1967年9月場所千秋楽○(10)●(9)大鵬
1967年11月場所11日目●(10)○(10)佐田の山
1968年1月場所11日目●(10)○(11)佐田の山
1968年3月場所13日目●(10)○(12)若浪
1968年5月場所13日目●(10)○(13)玉乃島(1)玉乃島初優勝
1968年7月場所12日目○(11)●(13)琴桜
1968年9月場所10日目●(11)○(14)大鵬
1968年11月場所千秋楽○(12)●(14)大鵬
1969年1月場所千秋楽○(13)●(14)大鵬
1969年3月場所12日目●(13)○(15)琴桜
1969年5月場所10日目○(14)●(15)大鵬
1969年7月場所10日目○(15)●(15)清国
1969年9月場所11日目●(15)○(16)玉乃島(2)
1969年11月場所千秋楽○(16)●(16)北の富士(2)
1970年1月場所千秋楽●(16)○(17)北の富士(3)千秋楽で北の富士(1敗)・玉乃島(2敗)で対戦。優勝決定戦は北の富士が勝利。
1970年3月場所千秋楽○(17)●(17)大鵬北の富士・玉の海新横綱
1970年5月場所13日目○(18)●(17)北の富士(4)
1970年7月場所千秋楽○(19)●(17)北の富士(5)
1970年9月場所千秋楽○(20)●(17)玉の海(3)玉の海、全勝を千秋楽に阻止される
1970年11月場所13日目●(20)○(18)玉の海(4)
1971年1月場所13日目●(20)○(19)大鵬大鵬、最後の優勝
1971年3月場所13日目●(20)○(20)玉の海(5)
1971年5月場所千秋楽○(21)●(20)北の富士(6)千秋楽で北の富士(全勝)、玉の海(1敗)で対戦。北の富士が全勝優勝。
1971年7月場所千秋楽●(21)○(21)玉の海(6)玉の海、最後の優勝
1971年9月場所千秋楽○(22)●(21)北の富士(7)玉の海、最後の対戦


両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。

両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。

突然の悲劇

全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなるため、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにもかかわらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなってしまった。

10月2日の大鵬引退相撲では、大鵬最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川健次の引退相撲にも出場した。玉の海は出場後直ちに虎の門病院へ入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日に退院する予定だった。なお、この時点で11月場所の出場に関しては未定だったこともあり、本人も「退院後すぐに相撲は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたという。

ところが、退院前日の10月11日午前7時30分[15]、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。27歳だった。最期の言葉は「胸が苦しい…」[16]という言葉であった。急逝後、玉の海の遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では術後の肺血栓[1]であることが判明し、特に右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという[17]


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