率川神社
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、奈良県奈良市本子守町の率川神社について説明しています。奈良県奈良市西新屋町の率川神社については「率川神社 (奈良市西新屋町)」をご覧ください。

率川神社

拝殿
所在地奈良県奈良市本子守町18
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分52.5秒 東経135度49分32.6秒 / 北緯34.681250度 東経135.825722度 / 34.681250; 135.825722 (率川神社)座標: 北緯34度40分52.5秒 東経135度49分32.6秒 / 北緯34.681250度 東経135.825722度 / 34.681250; 135.825722 (率川神社)
主祭神媛蹈?五十鈴姫命
狭井大神 (御父神)
玉櫛姫命 (御母神)
社格式内社(小)
大神神社境外摂社
創建推古天皇元年(593年2月3日
本殿の様式一間社春日造
別名率川坐大神御子神社
子守明神
例祭6月17日(三枝祭)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}率川神社
テンプレートを表示

率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい[1]、また子守明神とも呼ばれる[2]。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社
歴史

推古天皇元年(593年2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇皇后である媛蹈?五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ[1]、奈良市最古の神社という[2]。後に元正天皇によって本殿の右側には媛蹈?五十鈴姫命の父神である狭井大神を、左側には母神である玉櫛姫命が祀られるようになった。

仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられている[1]治承4年(1180年)12月、平重衡による南都焼討によって社殿が焼失する[1][3]

建久元年(1190年)に興福寺の支援により再建されると、以後は興福寺の支配下に入った。

中世以降は春日若宮神官により管理され[1]、「春日三枝神社」とも呼ばれるようになった。その為、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録されている[1]。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、1877年明治10年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた[1]

本殿中央に御子神(媛蹈?五十鈴姫命)が祀られ、父母神(西に御父神・狭井大神、東に御母神・玉櫛姫命)が両脇によりそうような姿で鎮座していることより、古くから「子守明神」とたたえられ、安産、育児等の神として篤い信仰がよせられている[2]。南辺を流れる率川は、よって子守川との俗称もある[1]
祭神

中本殿 -
媛蹈?五十鈴姫命

右本殿 - 狭井大神

左本殿 - 玉櫛姫命

境内

本殿 - 一間社春日造の社殿が三棟並立して建てられ、障屏により繋がっている
[1]。正面にいずれも七級の木階を設け、登高欄に擬宝珠をつける[1]。屋根は桧皮葺で箱棟に千木勝男木を上げており、細部手法から見て江戸時代初期頃の建築と見られる[1]

中本殿(奈良県指定有形文化財)

右本殿(奈良県指定有形文化財)

左本殿(奈良県指定有形文化財)


拝殿

率川阿波神社 - 後述

住吉社 - 祭神:上筒男命・中筒男命・底筒男命息長帯比売命

春日社 - 祭神:武甕槌命斎主命天児屋根命比売神

蛙石

社務所


拝殿

拝殿脇より望む本殿

万葉歌碑[注釈 1]

譲葉の植樹

末社及び率川阿波神社鳥居

末社 春日社

末社 住吉社

手水舎

かえる石

大神神社遥拝所

正面鳥居

西側鳥居

文化財
奈良県指定有形文化財

本殿・三棟
[1]

三枝祭

6月17日に行われる例祭で、一般にはゆり祭りの俗称で知られている[1]三輪山に咲く笹ゆりは古くはさいぐさと呼ばれ、この花が供えられる[1]

供え物は

吹iそん)にしらき・清酒を盛り、缶(ほとぎ)にくろき・濁酒を盛って供え、酒樽の周りをゆりの茎で囲む

折櫃に納めた熟饌を柏の葉で蓋をし、黒木の棚に備える

ゆりの花を大きな桶に盛って供える

といった古式に則った様式で供えられ、鎮花祭に因んだ祭りで、悪疫除けの祈願が込められている[1]

祭り当日は、祭神である五十鈴姫の古事に則り、祭典後にゆりをかざした七乙女の行列が町中に展開する[1]大宝令にも記されている古い祭りで、『神祇令』にも「三枝の花を以て酒樽を飾る祭の故に三枝祭という」と記載されている[1]
率川阿波神社


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef