この項目では、奈良県奈良市本子守町の率川神社について説明しています。奈良県奈良市西新屋町の率川神社については「率川神社 (奈良市西新屋町)」をご覧ください。
率川神社
拝殿
所在地奈良県奈良市本子守町18
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分52.5秒 東経135度49分32.6秒 / 北緯34.681250度 東経135.825722度 / 34.681250; 135.825722 (率川神社)
率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい[1]、また子守明神とも呼ばれる[2]。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。
歴史が勅命により神武天皇の皇后である媛蹈?五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ[1]、奈良市最古の神社という[2]。後に元正天皇によって本殿の右側には媛蹈?五十鈴姫命の父神である狭井大神を、左側には母神である玉櫛姫命が祀られるようになった。
仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられている[1]。治承4年(1180年)12月、平重衡による南都焼討によって社殿が焼失する[1][3]。
建久元年(1190年)に興福寺の支援により再建されると、以後は興福寺の支配下に入った。
中世以降は春日若宮神官により管理され[1]、「春日三枝神社」とも呼ばれるようになった。その為、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録されている[1]。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、1877年(明治10年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた[1]。
本殿中央に御子神(媛蹈?五十鈴姫命)が祀られ、父母神(西に御父神・狭井大神、東に御母神・玉櫛姫命)が両脇によりそうような姿で鎮座していることより、古くから「子守明神」とたたえられ、安産、育児等の神として篤い信仰がよせられている[2]。南辺を流れる率川は、よって子守川との俗称もある[1]。 6月17日に行われる例祭で、一般にはゆり祭りの俗称で知られている[1]。三輪山に咲く笹ゆりは古くはさいぐさと呼ばれ、この花が供えられる[1]。 供え物は といった古式に則った様式で供えられ、鎮花祭に因んだ祭りで、悪疫除けの祈願が込められている[1]。 祭り当日は、祭神である五十鈴姫の古事に則り、祭典後にゆりをかざした七乙女の行列が町中に展開する[1]。大宝令にも記されている古い祭りで、『神祇令』にも「三枝の花を以て酒樽を飾る祭の故に三枝祭という」と記載されている[1]。
祭神
中本殿 - 媛蹈?五十鈴姫命
右本殿 - 狭井大神
左本殿 - 玉櫛姫命
境内
本殿 - 一間社春日造の社殿が三棟並立して建てられ、障屏により繋がっている[1]。正面にいずれも七級の木階を設け、登高欄に擬宝珠をつける[1]。屋根は桧皮葺で箱棟に千木勝男木を上げており、細部手法から見て江戸時代初期頃の建築と見られる[1]。
中本殿(奈良県指定有形文化財)
右本殿(奈良県指定有形文化財)
左本殿(奈良県指定有形文化財)
拝殿
率川阿波神社 - 後述
住吉社 - 祭神:上筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯比売命
春日社 - 祭神:武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神
蛙石
社務所
拝殿
拝殿脇より望む本殿
万葉歌碑[注釈 1]
譲葉の植樹
末社及び率川阿波神社鳥居
末社 春日社
末社 住吉社
手水舎
かえる石
大神神社遥拝所
正面鳥居
西側鳥居
文化財
奈良県指定有形文化財
本殿・三棟[1]
三枝祭
吹iそん)にしらき・清酒を盛り、缶(ほとぎ)にくろき・濁酒を盛って供え、酒樽の周りをゆりの茎で囲む
折櫃に納めた熟饌を柏の葉で蓋をし、黒木の棚に備える
ゆりの花を大きな桶に盛って供える
率川阿波神社