玄菟郡
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玄菟郡

各種表記
ハングル:???
漢字:玄菟郡
日本語読み:げんとぐん
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玄菟郡(げんとぐん)は、前漢により現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北部に設置されたのことである[1]

楽浪郡臨屯郡真番郡と共に漢四郡と称される。玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一玄菟郡」「第二玄菟郡」「第三玄菟郡」とよばれている。歴史研究ではこれらを混同を避けるべく明確な分類を行う必要がある。
前史

前134年元光元年)、前漢は?州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取らんとして城邑を築いた。

前128年元朔元年)冬、?(『後漢書』東夷伝による。『漢書武帝紀では「?」と表記される)君南閭ら(?族の首長の「南閭」たち)が28万[2]の?人を率いて投降、その地に「蒼海郡[3]を設置。

前126年(元朔3年)春、蒼海郡を廃止。

前108年元封3年)、衛氏朝鮮を滅ぼしその故地に楽浪郡を、周辺に真番郡臨屯郡の2郡を設置。

第一玄菟郡



朝鮮の歴史
考古学朝鮮の旧石器時代(朝鮮語版)
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説檀君朝鮮
古朝鮮箕子朝鮮

辰国衛氏朝鮮
原三国辰韓弁韓漢四郡
馬韓帯方郡楽浪郡?


三国伽耶
42-
562百済
高句麗

新羅

南北国熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892安東都護府

668-756渤海
698
-926
後三国新羅
-935
百済

892
-936後高句麗
901
-918女真
統一
王朝高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-朝鮮民主主義
人民共和国

1948-


朝鮮の君主一覧

大韓民国指定国宝

中国朝鮮関係史

Portal:朝鮮

前107年(元封4年)に遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属した。かつての蒼海郡の再建が玄菟郡であるとの説もある。郡治は夫租県(現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市)に置かれた。

郡内の県は、夫租、高句驪、西蓋馬、上殷台の4県しかわからない。これらの県は第三玄菟郡の県として移転されたので後々まで記録に残ったものであり、これ以外の県についての詳細は記録が散逸して不明である。が、当時の戸数は45,006戸、人口は221,845人。当初の領域は遼東郡北端から出発して、吉林省東部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)慈江道両江道に跨がる地域を経て、咸鏡道を通り日本海に達する回廊状に県城が並んだものと推察してこれを「玄菟回廊」[4][5]と呼ぶ学者もいる。

前82年始元5年)に漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県が楽浪郡に編入された。玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に編入された。この7県(嶺東7県)は楽浪郡東部都尉の管轄とされた。玄菟郡の郡治は夫租県から変わって高句驪県(現在の吉林省集安市通溝郷)[6]に移された[7]。これで、玄菟郡領域のうち日本海沿岸部(咸鏡南北道)は夫租県とその周辺一帯を除いて大部分が放棄されたことになる。同時に臨屯郡領域のうち北部の6県を除く半分以上(9県)も放棄された(3世紀の江原道の「東?族」の起源)。
第二玄菟郡

紀元前75年元鳳6年)になると、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、玄菟郡は西へ縮小移転された。郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵老城村(昔の興京)付近へ移され、元の場所には高句麗侯(後の高句麗王国の前身)が冊封された。

始建国4年(12年)、異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。後漢が成立すると光武帝建武6年(30年)に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた(その一例として夫租?君・夫租長の銀印などが発見されている。3世紀の「沃沮族」の起源)。建武8年(32年)に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格された。
第三玄菟郡

107年永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡とし、遼東郡に隣接していた旧玄菟郡を廃止、高句麗による領有を許可した。これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句麗県は現在の瀋陽(瀋陽と撫順の中間からやや瀋陽寄り)に遷された。諸県のうち、高句麗県・上殷台県・西蓋馬県の3県は、元々は玄菟郡にあった諸県の県名を移動させてきたものの残滓である。戸数は4万5006、口数は22万1845人。
高句麗との関係

後漢末、遼東太守の公孫氏が独立すると、隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。その後、曹魏は侵犯を繰り返す高句麗に対して、?丘倹を派遣して大いに打ち破り、丸都城を毀城した。これにより、旧玄菟郡西部は魏の領有となり、西晋前燕前秦後燕へと継承された。東晋の時代になると、旧玄菟と玄菟遼東の二郡は後燕と高句麗との間での争奪が繰り返されたが、404年、最終的に遼東郡は高句麗の領有となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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