玄奘
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この項目では、実在の人物の玄奘(げんじょう)について説明しています。

四大奇書小説に登場する三蔵法師(さんぞうほうし)については「西遊記」をご覧ください。

玄奘三蔵
602年 - 664年
玄奘三蔵像
東京国立博物館鎌倉時代 重文
尊称三蔵法師
生地洛州?氏県
宗派法相宗
寺院大慈恩寺
戒賢
弟子道昭
著作大唐西域記ほか、仏教典多数
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玄奘
各種表記
繁体字:玄奘
簡体字:玄奘
?音:Xuanzang
ラテン字:Hsuan2-tsang4
発音転記:シュェンザン
英語名:Xuanzang
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玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代中国訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳?(ちんい)。は大遍覚[1]で、尊称は法師三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦不空金剛を含めて四大訳経家とされる。

629年シルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。
生涯
仏教への帰依

陳?は、朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い洛州?氏県[2][3][4](現在の河南省洛陽市偃師区?氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男[2][4]として生まれた。母の宋氏は洛州長吏を務めた宋欽の娘である[2]は玄奘[2][4]で、戒名はこれをとした。生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある[5]

陳氏は、後漢陳寔[2][3][4]を祖にもつ陳留出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡太守になっている[2][4]。その後、祖父である陳康は北斉に仕え、?氏へと移住した[2][3][4]

8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳?は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳?の神童ぶりが評判となった[4]

10歳[5]で父を亡くした陳?は、次兄[4]の長捷(俗名は陳素[3])が出家して洛陽の浄土寺に住むようになった[2][3][4]のをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった[3]。ほどなくして度僧の募集があり、陳?もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿である鄭善果(中国語版)は、陳?に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳?は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた[4]。これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、[2][4]陳?は度牒を得て出家した。こうして兄と浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ[2][3][4]

武徳元年(618年)、が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄と長安の荘厳寺[3]へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった[2][3][4]。かつて煬帝が洛陽に集めた名僧らは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人を尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究を進め、歴史や老荘思想[2][4]への見識を深めた。

武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた[2][4]。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘は一人で旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ[2][3][4]。その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ[2][4]
西域の旅

玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国し、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。

高昌王である?文泰は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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