獣神サンダー・ライガー
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この項目では、プロレスラーについて説明しています。漫画およびアニメについては「獣神ライガー」をご覧ください。

「山田恵一」はこの項目へ転送されています。貴族院議員については「山田恵一 (貴族院議員)」をご覧ください。

獣神サンダー・ライガー

プロフィール
リングネーム獣神サンダー・ライガー
獣神ライガー
鬼神ライガー
ハラキリ・ハカタ2号
マスクド・イエロー
マスクドC.T.U-L
C.T.U CATS-THUNDER TAMA
C.T.Uレンジャー・イエロー
本名山田 恵一
ニックネーム世界の獣神
怒りの獣神
ジュニアの象徴
リビング・レジェンド
身長170cm
体重90.5kg
誕生日 (1964-11-10) 1964年11月10日(59歳) 11月30日生まれは間違い(本人確認済)
出身地広島県広島市[注釈 1]
所属新日本プロレス
スポーツ歴レスリング
骨法
柔術
トレーナーレオンチノ
藤波辰巳
山本小鉄
藤原喜明
堀辺正史
デビュー1989年4月24日
引退2020年1月5日
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YouTube
チャンネル

獣神サンダー・ライガーチャンネル-Jyushin thunder Liger CHANNEL-

活動期間2020年2月12日 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数21.7万人
総再生回数33,751,370回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-07-21-00002022年7月21日時点。
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獣神サンダー・ライガー(じゅうしんサンダー・ライガー、Jushin Thunder Liger、1964年11月10日 - )は、日本プロレス解説者、YouTuber

覆面レスラーであり、引退後もプロレス解説者、タレントとして覆面をかぶり続けている。最終所属は新日本プロレス。その正体は山田 恵一とされているが[1][2](後述「ライガーの正体について」を参照)、週刊プロレスの選手名鑑では非公開となっている。出身地は永井豪宅もしくは広島県広島市[注釈 1]。通称は「世界の獣神」。血液型AB型。

2020年1月5日の新日本プロレス東京ドーム大会にて最後の試合を行い現役を引退、引退式は1月6日に実施された。

息子は歌手でアイドルグループ「Star☆Prince」の一員である桐野貴[3]

右記のプロフィールはライガーとしてのものである。
ライガーの正体について

ライガーの正体とされるのは、新日本プロレスに所属していた山田 恵一(やまだ けいいち、1964年11月10日 - )で、当時の週刊プロレスでも山田→ライガーの特集記事が組まれたこともあった[要出典]。しかし、ギミック上はあくまで正体不明であり、ライガーも「山田は死んだ。リバプールの風になった」と発言している。誕生日は11月30日とするメディアも散見されるが、実際は11月10日生まれである。

一方のテレビ中継では、小林邦昭とのデビュー戦にて、実況の辻よしなりは「あの山田恵一が獣神ライガーの中に入っているのではないかという」「(浴びせ蹴りを出した後に)骨法炸裂、やはり山田か」などと正体を示唆する実況を展開した。その後もしばしば山田の名を出し、1991年のトップ・オブ・ザ・スーパージュニア決勝(対保永昇男戦)では、「山田恵一が獣神サンダー・ライガーになったのは周知の事実」とまで漏らしている。試合中にマスクを剥がされ、素顔が剥き出しとなったこともある。

また、バラエティ番組や対談等の出演時における紹介プロフィールや、自身の経歴として語った若手時代の内容が山田のものだったこともある[要出典]。さらに、2013年12月発売の『G SPIRITS』誌に掲載された小佐野景浩によるインタビューでは、「素顔時代の自分があるから、その後のライガーがあるわけだし、専門誌に獣神ライガーに生まれ変わりますって素顔で漫画家の永井豪先生と一緒の写真が掲載されたこともありますからね。本名だって知られてるじゃないですか。隠すものは何もありませんよ」と自ら語った上で、山田時代の活動を回顧しており[4]、正体を隠すことに執着せずギミックに囚われていない。自身のYoutubeチャンネルでは、むしろ「山田恵一」をネタにする場合もある。長州力は永きに渡ってライガーを「山田」と呼んでおり、マサ斎藤に至っては実況解説の際にライガーを「山田」と呼び、ライガー自身も困惑したという[5]

新日本のLA道場の完成時、練習に遅刻した安田忠夫ドン・フライが激怒して乱闘になった際、山田と思わしき人物が他の選手と共に制止している姿がテレビに映し出された[要出典]。

漫画家の永井豪は、ライガーの正体が山田であることを『永井豪のヴィンテージ漫画館』にて明記している[6]。また、2020年1月5日、引退試合後に行われたライガー・永井による共同記者会見では「当時の山田選手」という永井の発言があった(ライガーも「もういいだろ?わかってるんだから!」と爆笑しながら語っていた)。
来歴

ここではライガーの正体とされる山田恵一の経歴も記載している。

山田 恵一
プロフィール
リングネーム山田 恵一
フジ・ヤマダ
本名山田 恵一
ニックネームシューティングスター
リバプールの風
あすなろ戦士
飛燕
身長170cm
体重95kg
誕生日 (1964-11-10)
1964年11月10日(59歳)
出身地広島県広島市中区
所属新日本プロレス
スポーツ歴レスリング
骨法
柔術
トレーナー藤波辰爾
山本小鉄
藤原喜明
堀辺正史
デビュー1984年3月3日
引退1989年1月頃に消息を絶つ
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山田恵一

広島県広島市中区出身。藤波辰巳に憧れ、プロレスラーを志す。広島電機大学付属高等学校(現:広島国際学院高等学校)在学時からレスリングで頭角を現し、国体にも出場した。低身長を理由に、日本でのプロ入りを諦め身長制限のないメキシコ行きを決断。渡航資金を稼ぐために高校3年間は毎朝、新聞配達をしていた苦労人である(人生で一番頑張ったのはこれで、レスラー生活より上だと自ら語っている)。ちなみに中学時代は水泳部に所属し、背泳ぎで新人賞を獲得している。また中学の友人(野球部)と当時ジムに通いベンチプレス100kgを平気で上げ、三点ブリッジでその友人を上に乗せて首を鍛えていた。背を伸ばすために始めた水泳だったが、プロレスラーになるための練習を並行し身長が止まってしまったと言う(スクワットは最終的には1500回ほどこなし下記の新日本の体力テストにも問題なかったのは確かである)。

高校卒業後の1983年6月下旬-7月上旬のメキシコ滞在中、そこで出会ったグラン浜田から山本小鉄を紹介され、山本によって新日本プロレス入門を許可される(「高校卒業後、新日本の入門テストを受験し、体力テスト等は合格基準を満たしたが、低身長を理由に不合格となった後に渡墨した」というのは誤りで、実際は受験していないどころか、履歴書も送っていない[4])。1984年3月3日、小杉俊二戦でデビューした。当時の世代で体格的に恵まれないジュニアヘビー級において、ヘビー級のパワーに匹敵したのは山田が初めてといっても過言ではなく、並大抵ではない努力を積み重ねた、努力型の選手として古参ファンから敬服されている。

第1回ヤングライオン杯において決勝戦で小杉に敗れ、優勝を逃す。だが、この頃から若手らしからぬテクニックを見せ、ジャーマン・スープレックスで同じく若手であった橋本真也にフォール勝ちし、海外遠征から凱旋帰国した後藤達俊にもエビ固めで勝利する。さらに異種格闘技戦も経験。ドン・中矢・ニールセンとも対戦し、善戦するもKOで敗れた。第2回ヤングライオン杯での優勝後は海外修業も経験。遠征中は「フジ・ヤマダ」のリングネームを名乗り、ローラーボール・マーク・ロコ(初代ブラック・タイガーの正体)から、オールスター・レスリングで世界ヘビーミドル級王座を獲得するなど活躍した。

当時の新日本ジュニア戦線は、越中詩郎ザ・コブラ小林邦昭ヒロ斎藤保永昇男UWFから高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫ジャパンプロレス馳浩、海外からはオーエン・ハートなど錚々たるメンバーが揃う第2期黄金期であり、山田もその一翼を担っていた。その影で山田は、藤原喜明の通称「藤原教室」でカール・ゴッチ源流の関節技を、また同時期に若手の船木優治(現:船木誠勝)と共に、当時まだ馴染みの薄い新進の格闘術「骨法」をいち早く学んでいる。

身長のハンデを埋めるため新日本プロレスでもトップクラスの練習量を誇った。通常の興行が行われる際、若手は雑務に追われることが多い中、会場設営、アントニオ猪木のスパーリングパートナー、藤原教室、グッズ販売、自身の試合、先輩レスラーのセコンド、さらにわずかな空き時間を見つけては階段ダッシュと、7時間以上動き続けることも日常茶飯事だった。

1989年1月のイギリス遠征中に消息不明になったとされている。
獣神サンダー・ライガー獣神サンダー・ライガー。

1989年4月24日、東京ドームでアニメ「獣神ライガー」とのタイアップ企画により、小林邦昭戦でデビュー。ライガースープレックス(獣神原爆固め)で勝利を収めると、翌月の5月25日には馳浩を破り、IWGPジュニアヘビー級王座を獲得し第9代王者となった。

ギミックのモチーフとなったのは永井豪原作漫画でもある「獣神ライガー」で、当時放映されていたアニメにシンクロして獣神ライガー→ファイヤーライガー→獣神サンダー・ライガーへと変化している。

1990年代前半はIWGPジュニアヘビー級王座を巡り保永昇男佐野直喜(現:佐野巧真)、ペガサス・キッドエル・サムライ、2代目ブラック・タイガー、野上彰(現:AKIRA)らと激闘を展開。これ以降、ライガーは日本ジュニア界の中心人物として活躍していくことになる。

当時、新日本プロレスと提携していたアメリカ合衆国のメジャー団体WCWにも何度となく遠征しており、リチャード・モートンブライアン・ピルマンスコッティ・フラミンゴジミー・ガービンブラッド・アームストロングリッキー・スティムボートシェーン・ダグラスなどと対戦[7]1992年12月27日にはサウスカロライナ州グリーンビルにおいて、スティングとのシングルマッチも行われた[8]

また、他団体との交流戦、対抗戦が盛んになると、ライガーも積極的に動いて他団体選手の新日本参戦に尽力する。ザ・グレート・サスケウルティモ・ドラゴン等と団体の垣根を越えて協力し、ついに1994年スーパーJカップを開催、成功を収めた。ところが、同年愛知にて行われたメインイベント、ライガー&長州力組対ワイルド・ペガサス&武藤敬司組の試合で足を骨折してしまう。


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