猿田彦神社_(掛川市高瀬)
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静岡県掛川市幡鎌の「猿田彦神社」、および、静岡県掛川市山崎の「猿田彦神社」とは異なります。

猿田彦神社

猿田彦神社の航空写真
(2020年6月16日)
山中に立地している
所在地静岡県掛川市高瀬1376番地[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分34.33670秒 東経138度2分41.13740秒 / 北緯34.7262046389度 東経138.0447603889度 / 34.7262046389; 138.0447603889 (猿田彦神社 (掛川市高瀬))座標: 北緯34度43分34.33670秒 東経138度2分41.13740秒 / 北緯34.7262046389度 東経138.0447603889度 / 34.7262046389; 138.0447603889 (猿田彦神社 (掛川市高瀬))
主祭神猿田彦ノ神[2]
社格無格社[3][4]
創建不明
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}猿田彦神社静岡県の地図を表示猿田彦神社日本の地図を表示
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猿田彦神社(さるたひこじんじゃ、英語: Sarutahiko Jinja)は、静岡県掛川市の神社である。近代社格制度における社格無格社
概要

静岡県掛川市高瀬に鎮座する神社である[1][2]猿田彦ノ神を祀っており[2]、高瀬の住民を氏子としている[2]。佐束山に連なる静謐な山中に立地しており、林の中の鳥居をくぐると石段が境内まで続いている。
祭神

猿田彦ノ神[2]

歴史氏子区域である静岡県掛川市高瀬の航空写真(2020年6月16日)。猿田彦神社は高瀬の中央の山地に位置している

創建された正確な時期は不明であるが[2]、由緒書きに基づけば少なくとも室町時代まで遡ると考えられる。境内の由緒書きの立て札などには、足利家にまつわる逸話が記されている[2]。それによれば、征夷大将軍となった足利尊氏の子である足利基氏は、関東管領として鎌倉府に下向することになったが[2][† 1]、その基氏の娘が大沢権太夫とともに遠江国城飼郡佐束郷の高瀬の地にやってきたという[2][† 2][† 3]。基氏の娘は守本尊を深く信仰しており[2]、それを祀るための社として「天白大権現」を創建した[2]。それ以来、天白大権現は遠江国城飼郡佐束郷の高瀬の地に鎮座する。基氏の娘の死後、高瀬の住民は基氏の娘の遺徳を偲ぶとともに[2]、天白大権現を深く信仰するようになった[2]。その結果、高瀬の住民は天白大権現の氏子となった[2]

なお、高瀬においては、これとは別の足利家にまつわる伝承も遺されている。それによれば、足利尊氏の子である足利直冬は、室町幕府に反旗を翻し、実父である尊氏と対立するようになった[5]。尊氏からの攻勢を避けるため[5]、直冬の娘である「三の姫」は大沢、斉藤、栗田、三橋ら4名の家臣とともに落ち延び[5]、遠江国城飼郡佐束郷の高瀬の地に辿り着いたという[5]。三の姫は仏門に帰依し[5]、高瀬の地に小さな堂宇を建ててそこに住まうことになった[5]。高瀬に今も残る「込堂」という名称は、三の姫の堂宇に由来するという[5]。さらに、高瀬の八相寺には三の姫の墓所も遺されており[5][6]、当神社も三の姫の伝承を今に伝えるものの一つだとされている[5]。このように、高瀬には多様な伝承が遺されており[5]、さまざまな異説が存在するとされる[5]

一方、『永享記』などを根拠として、上記とは別の足利家にまつわる説も提唱されている[6]。それによれば、高瀬に落ち延びてきたのは足利持氏の娘だとされる[6]。足利尊氏の玄孫である持氏は[7][8]、「鎌倉公方」と呼ばれた足利基氏の曾孫にあたる[7][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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