猿楽
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 舞台芸術

猿楽(さるがく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:猿樂)は、室町時代に成立した日本伝統芸能江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである[1]
名称

散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)、猿楽とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を申楽師、または単に申楽とよんだ。申楽という言葉は散楽の転訛したものであるともいう。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」[2] で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」として、猿楽の文字を嫌っているが、歴史的には誤りであるとされる[3]
歴史申楽(猿楽)(能郷の能・狂言)が毎年4月13日に開催されている能郷白山神社岐阜県本巣市根尾能郷)の舞台

現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に(南方)中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて申楽(猿楽)と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった[4]
飛鳥・奈良時代

(南方)中国大陸から伝わった散楽が申楽(猿楽)のはじまりと考えられている。申楽(猿楽)・能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりであると風姿花伝に記されている。散楽の具体的な内容は、史料が少ない為にはっきりしていないが、正倉院宝物の「墨絵弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業手品物真似曲芸歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った[5]
平安時代

延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった[6]

この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが申楽(猿楽)と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。平安時代後期に藤原明衡が著した『新猿楽記』には、「福広聖の袈裟求め・妙高尼の襁褓乞い」「京童のそらざれ・東人の初京上」のような演目が並んでいる。僧侶が袈裟をなくして探し回る、独身の尼さんに乳児用のオムツが必要になる、口の上手な京童とおのぼりさんの東人の珍妙なやりとり、といった寸劇が演じられ、都の人たちが抱腹絶倒していた様子がうかがえる[7]。また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、呪禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが翁申楽(猿楽)へと発展したのではないかとの説もある[8]
鎌倉時代から室町時代

鎌倉時代には平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の申楽が出現した。現行のに相当する翁申楽である。永仁5年(1297年)に書かれた『普通唱導集』では、もっぱら翁申楽について言及しており当時の申楽が翁申楽を本芸としていたことを物語っている[9]

翁申楽は寺社の法会祭礼に取り入れられたため、申楽は寺社との結びつきを強め、を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の申楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に申楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「申楽(猿樂)の能」となり、公家武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている[10]

座のなかでも、とくに大和申楽の四座、近江猿楽六座が名高い。もともと申楽(猿楽)は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子神子鉢叩猿引きらとともに下層の賤民であり同じ賤民階級の声聞師の配下にあった。室町時代には、鎌倉時代の猿楽が発展し観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての申楽(猿楽)が形作られる[11][12][13]
申楽(猿楽)の集大成

申楽は平安時代には中央的ではなかったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。

申楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していった。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて同業組合としてのが生まれ、寺社の保護を受けるようになる。それが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期を経て室町時代に入る頃になると、これに代わって武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装小道具舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、大和申楽の一座である結崎座より観阿弥が現れ、旋律に富んだ白拍子である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。

このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる催しである。これは申楽や田楽の座が互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の世俗的な成功に直結していた。観世座における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がるためという側面があった。

永和元年(1375年)、室町幕府三代将軍足利義満は、京都の今熊野[注 1] において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef