猫ノ沢事件
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猫ノ沢事件(ねこのさわじけん)とは、1916年(大正5年)に秋田県河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢(現大仙市協和船岡沢内)で発生した事件である。この事件により全国一の密造酒摘発地であった秋田県での密造酒の習慣を大きく変えるきっかけになった事件であった。「猫ノ沢」の地名は資料によっては「猫の沢」と記述される場合も多いが、この記事では前者で統一する。
概要沢内白山神社
神社の前が猫ノ沢事件の現場となる

1916年(大正5年)6月24日、秋田税務署間税課長ら一行8名は、未明豪雨の中を濁酒検挙のため、河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢部落に向っていた。早朝から同部落を調べ、隣接の庄内部落に向かう途中、猫ノ沢部落に向かう夫婦連れに出会う。署員は「どこから来たか」と尋ねたところ、男は「貴様らの如き者に用事はない」と暴言を吐き、突如Kに組み付いて押し倒したので、他の署員が取り押さえて不心得を諭した。ところが、その夫婦は猫ノ沢集落に帰って、「いま税務署属らに不当の暴行をうけ殺されるところだった」と伝えた。部落民は日頃から濁酒検挙で税務署属に悪感情を抱いていたところから憤慨し、その暴行への復讐、および再び濁酒検挙にこないよう打ちこらしてやるべきだと相談がまとまり、税務署属の帰路を襲うべく盤木を鳴らして部落民を小学校前に集め待機した。一方税務属一行は、猫ノ沢部落白山神社付近の沢合いや堰端、田圃など捜索すべく進んでいた。これを知った部落民は盤木を乱打して襲撃を促し、を着用し、その他の凶器をたずさえ、降雨の中を白山神社前に向い税務署属一行と出会うや喚声をあげて襲いかかり、無抵抗の税務署属らを突く、刺す、殴るの乱暴を働き、凄惨な修羅場と化した。税務署属一行は鎌で背部からに達する瀕死の重症を負わされた者、鎌で頭部を乱打され骨膜に達する重傷を負った者など5人が重軽傷を負った。この事件は首謀者、実行行為のあった者、あるいは声援して騒いだ一部の部落民が、騒擾公務執行妨害罪傷害罪で起訴され、10名を懲役(各6年2名、5年3名、1年5名)、15名を罰金(各30円3名、20円12名)に処する有罪判決が、2名に無罪の判決が言い渡され確定した[1]
背景

明治維新以降、酒類に対して一般的に課税することとなったのは、1871年(明治4年)の「清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則」[2](明治4年太政官布告第389号、清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ収税方法規則)を定めた時からである。この課税制度はもっぱら販売用の酒類を対象として規定されており、自家用のため製造する酒類については「細民農桑ノ辛苦ヲ醫スルカ爲」[3]のものとして課税の対象外としていた。しかしその後、財政規模の拡大とともに酒税負担を漸次増加せしめることとし、また、自家用酒を製造している者には資産家が多く、「細民」はかえって課税された酒類を購入するという齟齬も発生していた。そこで、1880年(明治13年)制定の酒造税則(明治13年太政官布告第40号)は、酒税の増税に伴い、自家用酒製造数量を1石(180L)以下に制限した(同附則)。1882年(明治15年)には、製造数量の制限のほか免許鑑札制度を導入し、免許鑑札料80銭を徴収するとともに、自家用酒として製造した酒類の販売を禁止した。さらに、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)に行われた日清戦争の歳入不足を補うために、1899年(明治32年)には自家用酒税法を廃止し、同時に自家用酒の製造を全面的に禁止した。しかし、1899年(明治32年)の酒類の製造数量はかえって減少傾向さえ示した。濁酒製造免許者は77%増となったが、その免許を受けるには年間50石(9000L)以上生産することを条件としていた。そのため、部落内の共同出資により団体を結成しその代表者の名義で免許を受け合法的に製造することが考えられていた。しかし、その濁酒を基にしてさらに大量の濁酒を密造する者が続出したため、結局かえって密造を助長する結果となった[4]

その後、1909年(明治42年)頃から密造取り締まりが厳密に実施され全般的には密造が減少傾向にあったものの、秋田県と岩手県は1916年(大正5年)まで密造激甚地として残っていた[5]。密造禁止の趣旨が徹底せず「自家用酒の製造は本来の悪事ではない」「小さな密造犯を処分するのは法律の目的ではない」「税務官吏の取り締まりは自分の成績を上げるためで、罰金のうち何割かは賞与としてもらうのではないか」という話が流布し、これらが税務官吏に対する怨恨になり、一方犯罪者に対する同情となり、相互庇い合うという傾向すら見られた[4]

1900年(明治33年)7月3日秋田魁新報では「酒は蕎麦と同様自家で作るべきものとの慣習は村落民に一つの観念を作り容易に抜けず、自家用酒制限されるや、彼等の不平高まり、税吏をみること疫病神のごとし、時に税吏に対し蛮行を振う愚民もあり、しかも村民一般の感情がかかる蛮行者をみること義民のごとく、犯罪者に対し同情をあたえつつあり、実に笑止千万なり」と報じている。密造酒の摘発には新聞記者も同行して記事を書いているほか、摘発記事などもかなり大きく報じている。税吏に濁酒を押収された家は「ヤマイ神につかれた」としてむしろ同情の眼で見られた。摘発は現品を押さえ、しかも醸造人が明らかでなければ罰金は科せられなかった。そこで、農民たちは知恵をしぼった。期限まで罰金を納められない場合には入獄しなければいけなかったが、この場合は年寄りや女房が夫に代わって労役につくことが多かった[6]


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