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猪熊事件
(いのくまじけん)
場所 日本・山城国平安京
日付慶長14年(1609年)7月
被害者後陽成天皇(第107代天皇)
犯人猪熊教利
容疑不義密通
動機猪熊教利の私利私欲
関与者
兼康頼継(兼康備後)
大炊御門頼国
花山院忠長
飛鳥井雅賢
難波宗勝
中御門宗信
猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。 猪熊家は知行200石を有した公家で山科家の分家であった。その猪熊家の当主左近衛少将・猪熊教利は、天下無双と称えられるほどの美男子で、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられた。また、当時流行したかぶき者の精神を汲んだ彼の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と称され、京都の流行になるほどだったという。しかし、猪熊はかねてより女癖が悪い人物で、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」と称されていた。 その一方で、猪熊は若年の頃は高倉家を継いでいたが、朝廷および一族内部の事情から山科家の当主に立てられ、後にまた廃嫡されて新家である猪熊家の当主とされるなど、本人と無関係に各家を転々とさせられる決して恵まれたとは言い難い境遇にあり、それが彼の行動に影響を与えた可能性も指摘されている[1]。 猪熊は慶長12年(1607年)2月、女官との密通が露顕し、激怒した後陽成天皇から勅勘(天皇からの勘当)を被る。猪熊は京都から追放処分とされ、いったん出奔したが、いつの間にか京へ戻ったという。その後も猪熊の素行はおさまらず、仲間の公卿を誘って女官と不義密通を重ねていた。 左近衛権少将・花山院忠長はある時、後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼康備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、それをきっかけとして2人で逢瀬を重ねていた。その話を漏れ聞いた猪熊は俄然興味を持ち、かねてから懇意の飛鳥井雅賢をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなった。 しかし、このような大人数の乱行が発覚@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しないはずもなかった[要校閲]。
経緯
天下無双の美男・猪熊教利
公家衆乱行の発覚.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに太田和泉守覚書の原文があります。